【党文化の解体】第2章(2) 「孔子を批判する」
1.儒・佛・道を批判する
数千年の歴史の中で、儒・佛・道家の影響は中国社会の各層に浸透した。
中国の儒家は「仁」と「義」を尊び、孔子は「義を見てせざるは、勇なきなり」と講じ、また「志士は仁の人、仁を害して生を求めず、その身を殺して仁をなす」とも講じた。儒家の天命観は広く知られており、『論語』で「死生に命あり、富貴は天にあり」と説き、『中庸』開篇では「天命これを性という」と講じ、人の根本特性は天の命じるところであるとした。
古人は、天は万物の本であり、一切の価値観の源であると考え、人の生命は天が賦与するものであり、今生の目的は天命に回帰することで、内心が善に向かうという要求を実現することであるとした。
儒家が諸経典の中で最高として崇めた『周易』は、「三才」を講じた。即ち、天、地、人であり、天が人を生み、地が人を養う。人はまた天地にのっとり、「天地とともにその徳を合した」。天地の運行は不変の天理に従うとした。庶民は、高みにあってこの世の一切を制約する「天」を信じ、不変の天理でもってこの世の一切をはかった。儒家の思想は、道徳と社会の秩序を繋ぎ止めていたのである。
佛家は、善、慈悲と恥を忍ぶことを講じ、命を重視し、衆生の平等を重んじた。中共政権が樹立される前は、佛家の六道輪廻、積徳行善、因果応報は一般大衆の常識であった。いわゆる「前世を知ろうと思ったら、今生を見よ。来世を知ろうと欲したら、今生の所業を見よ」である。客観的に言えば、佛家の「善悪に報いあり」という考えは、社会を安定させ、道徳を維持するのに極めて大きな作用を果たしたと言える。
道家は「真」や清浄無為、人と自然の調和した統一を強調し、返本帰真に到達することを目的とした。いわゆる「「人は地の法則にのっとり、地は天の法則にのっとり、天は道の法則にのっとり、道は自然の法則にのっとる」というものだ。中国の漢方医学と気功はすべて道家にその源があり、このほか服気、煉丹は道家の養生法だ。また、道家の占いと予測は、人を驚愕させるほど正確なものであり、大道修煉者には、肉体が成道し、羽化登仙の奇跡が見られた。
この世のレベルでは、人と自然との関係がますます対立し、環境問題が世界的に重要な話題になっている昨今、道家の思想は各国の学者に注目され、その特別な価値をさらに際立たせている。
中共にとっては、儒家の「天命」、佛家の因果応報、道家の「無欲無求、世間と争わず」は、中共が「階級闘争」を発動する障害であった。儒・佛・道の経典が確立した道徳観は、中共が自らの道徳的権威を樹立する障害となり、中共が発動する造反、革命、専制政治などの政治運動にとっても邪魔となった。
佛道両家の修煉はいずれも、人を生死から超越させ、儒家は人に正義のために命を捨てることを教えているのだが、これらは、中共が物質的手段を利用して社会全体を統制するうえでの障害となった。佛家の涅槃彼岸、道家の羽化登仙の遺跡と道家の自然な精神、儒家の天命観は全て、中共によって無神論を宣伝するうえでの障害と見なされたのである。
1-1) 儒家を批判する
1-1)-(1) 孔子を批判する
儒・佛・道の三教の中で、最も生活に溶け込んだのは儒家の思想であった。それは、中国人はずっと家族を生活の中心にしてきており、儒家の文化が規範を定めたのが正に家庭の倫理についてであり、さらには家庭の倫理を社会生活と政治にまで推し広めたからである。
これまでの2500年来、中華文化が世間に入り込んだ部分では、基本的に儒家の文化がその主導となった。魯の哀公が孔子廟を建てて以来、漢の高祖は儒家の礼節制度を朝儀として用い、漢の武帝は百家を破棄し、ただ儒家のみを崇め、唐の太宗は孔子に文宣王の諡号を与え、清の康熙大帝は曲阜の孔子廟で「万世師表」(万世の手本)の4文字を手書するなど、歴代の王朝は孔子に諡号を与えたり祀ったりしてきた。漢化の程度がもっとも少なかった元の時代でさえ、元の成宗は孔子を「大成至聖文宣王」として封じたほどだ。
孔子の人類に対する影響は、早くからすでに国境を超えて伝わり、日本、韓国、ベトナムなどのアジア諸国では儒家思想の一部が伝えられ、西洋啓蒙時代の大哲学者のボルテールまでもが孔子の学生であると自称した。
漢代以降、孔子に対するお参りは絶えることがなかったのだが、唯一共産党だけが、国家の政権を獲った後、孔子を罵り、その廟を打ち壊したのである。
「林彪と孔子を批判する闘争を徹底的に行おう!」(イラスト=大紀元)
中共は毛沢東以来儒家の文化に対して恨みの念を抱き、抑圧した。その原因は、『共産党についての九つの論評』の第六評で分析しているので、ここでは繰り返さない。毛が秦の始皇帝を好むのには一つの重要な原因があった。なぜなら、毛と始皇帝は、同様に法家のような権謀術数の方法を採用して国家を乱していたからだ。特に秦の始皇帝の焚書坑儒を毛は称賛して見習い、それに勝っていたのである。
「文、行、忠、信」を唱道した孔子は、中共によって「一切の古い理論の模範、悪勢力の霊魂」と罵られ、「民を生じて以来、実際孔子のごとき大悪人でありながら善人とされたものはなく、大多数の人の公の敵である。今後、人類は共に孔子を攻めるのがよろしい!古今のあらゆる思想家の中で、孔子こそ最大の間違いである」とした。
上述のような品性のない言論は、中共が孔子を批判する文章の主流を占めた。なぜなら中共は、孔子の著書や文章の一部だけをとって批判するだけで、その揚げ足取りをする外、はなから人が心服するような証拠など提出できなかったからだ。
中共の儒家に対する批判は、階級闘争をその出発点と基礎にしており、孔子を奴隷所有者階級の利益を代表していると見なした。今日、資本家がすでに中共に加入し、あるいは中共の官僚がすでに金満の資本家か権益のある地主になっているとき、階級闘争の理論は中共が再度提起する気がなくなるくらいに破たんしている。
これまでの儒家に対する批判を見てみると、笑い話になる。なぜなら、中共は自己の統治を維持するため、孔子を表彰する素ぶりをせざるを得なくなったからだ。ここ数年の統一戦線では、中共は海外に「孔子学院」を建設し、かつて自らが批判した孔子を利用して中国文化の愛好家を騙そうとしている。その一方で、大陸で生徒に儒家の十三経を暗誦させる民間学校は中共によって取り締まりえを受けているのである。
中共は政権を奪取するとすぐに、蔡尚思の『中国伝統思想総批判』を出版し(以下、『批判』)、孔子に対してそしり、罵倒と批判を行った。その中で、中共が常套手段として用いた理論的な誤謬は分析してみる価値がある。なぜなら、これらの誤謬の問題は、中共党文化の中での批判の重要な手法だからだ。
第一には、都合のよい部分だけを引用することだ。孔子が授業料をとっていたからといって孔子を貴族であると断定し、孔子の「教えありて類なし(人間には教育の程度の差はあっても、本来位の別はないという考え)」の主張には全然かまわなかった。
第二には、「張冠李載」(張君の帽子を李君に被せる)で、人の話を孔子の頭に被せたものだ。例えば『春秋谷梁伝』は、子夏の弟子が作ったものだが、『批評』はその中でかえって伯姫に関連した論述部分を利用して孔子を攻撃した。
第三には、不当に類推することで、孔子の説いた「その位にあらざれば、その政を謀らず」の揚げ足を取って、「国家の興亡、匹夫に責なし』という誤った結論を導きだした。個人の職位に対する態度を公民の義務の上にまで推し広げたのである。
第四には、不当に類比することだ。漢代以降の儒家に対する尊敬と秦の始皇帝の法家に対する尊敬は同一であるとした。しかしながら、儒家が道徳をもって人を感化したのと、法家が賞罰を持って人を引き付け脅迫したのが違うということには触れなかった。
第五には、本来の命題と逆の命題を混同することだ。たとえば『批評』中では、「女子が全て小人であるなら、男子は全部君子だ」と言っている。
第六には、「反科学」のレッテルを貼り付け、孔子を「自然科学に反する」とした。実際、孔子が論じた大部分は、倫理と政治の事情に関するもので、これらは自然科学とは関わりのないものだ。それはちょうど、定規を用いて重さを測るようなもので、自然科学の原理は、人の行為の善悪を量ることはできないものだ。さらにいわんや、孔子が規定した「六芸」中には「数学」も含まれており、これは自然科学の基礎となるものだ。
第七には、はっきりと名指しせずそれとなく人を誹謗中傷することだ。「三綱(君臣の義、父子の親愛、夫婦の和順)」を提案したのは、明らかに法家の韓非子、漢儒の董仲舒などであり、『批評』もまたこのことを認めているのだが、婦女子が貞操を守るために自殺したいくつかの悲惨な例を挙げている。これらの例は孔子とはまったく関連のないものであり、これらの例とちょうど反対に、『礼記』の記載によると、孔子の息子の妻と孫の妻はいずれも再婚しているのである。しかし、孔子を批判する大キャンペーンの中で、『批判』の読者は書の中の悲劇を孔子の身にもってこざるをえなくなった。
第八には、人の嫉妬心を掻き立てることだ。『批判』は、専ら「孔子の貴族生活」を大げさに表現して人の嫉妬心を掻き立てた。事実、孔子の言う「腐った肉や変質した食べ物は食べてはいけない」というのは基本的な養生の道であって、なんら貴族的な生活を送っていたわけではない。