【漢詩の楽しみ】過零丁洋(零丁洋を過ぐ)

 辛苦遭逢起一経、干戈落落四周星、山河破砕風抛絮、身世飄搖雨打萍、皇恐灘頭説皇恐、零丁洋裏歎零丁、人生自古誰無死、留取丹心照汗青

 辛苦遭逢(しんくそうほう)一経(いっけい)より起(おこ)る。干戈(かんか)落落たり四周星(ししゅうせい)。山河、破砕(はさい)して風、絮(じょ)を抛(なげう)ち、身世(しんせい)飄搖(ひょうよう)雨、萍(へい)を打つ。皇恐灘頭(こうきょうたんとう)皇恐を説き、零丁洋裏(れいていようり)零丁を歎(たん)ず。人生、古(いにしえ)より誰か死無からん。丹心(たんしん)を留取(りゅうしゅ)して汗青(かんせい)を照らさん。

 詩に云う。救国のための艱難辛苦は、経書を読んで進士に及第してからのものだ。武器を取り、兵を起こして転戦すること四年間。山河の荒れ果てた様子は、まるで柳絮(りゅじょ)が風に飛んで舞うかのよう。さすらう我が身は、雨に打たれる浮き草のようではないか。先ほど過ぎた、船の難所である「皇恐灘」のほとりでは「皇恐」つまり祖国南宋が滅亡する危惧を説き、この「零丁洋」では「零丁」つまり孤独で落ちぶれた我が身の様を歎(なげ)いた。人生は古来より、誰か死なないものがあろう。(どうせ死ぬ身であれば)この忠誠の真心を、史書の上に留めて輝かせたいものだ。

 文天祥(1236~1282)の作。文天祥は、後に宰相にもなった政治家であるとともに、南宋最末期の対モンゴル戦争では、自ら軍を率いて戦った歴戦の勇将である。敵である元の世祖クビライ(フビライ)が、最後までその命を惜しんだ民族の英雄であった。

 南宋(1127~1279)は、かつては北宋を滅ぼした金(きん)に攻められたが、いまやその金を滅ぼした北方のモンゴル(元)から強大な圧力を受け続けていた。南宋の末期に生まれた文天祥は、20歳のとき、状元(首席)で進士に合格。容貌よく体格にも優れた文天祥は、まさに英傑の器であった。すでに圧倒的劣勢であった南宋に1275年、モンゴルの大軍が侵入。文天祥は祖国防衛の勤王軍を率いて参じ、勇戦奮闘する。

 以来、文天祥の戦いは4年にも及ぶが、その長期戦を支えたのは、文天祥という英雄に心を寄せる多くの部下がいたからに違いない。ついに捕虜となり、その直後に南宋は降伏して終焉するが、なんと文天祥は脱出して、南宋の回復を図ろうとする。福建から広東へゲリラ戦で大いに抵抗したが、ついに再び捕えられて大都(北京)へ護送された。

 大都の獄中で、他の場所へ追い詰められた南宋の残党軍にあてて、降伏を勧める書簡を記すよう求められた。しかし文天祥はこれを拒否し、かつて詠じた冒頭の詩「過零丁洋」を使者に渡すのである。クビライは、文天祥の人物を惜しみ、なんとか帰順させようと再三説得したが応じなかったため、また、南宋の遺臣が英雄として存命であることを危ぶんで、やむなく文天祥を処刑した。

 「汗青を照らす」とは、まだ紙のない時代に、竹簡にする竹を火にあぶってから(書きやすく、虫害をふせぐため)文字を書いたことに基づく雅語で、歴史書に輝かしく名をのこすことを指す。

 その遺志の通り、南宋の忠臣・文天祥の名は、その長編詩「正気の歌」とともに、わが日本の幕末から明治にかけて、勤王の志士や若い軍人の心に不滅の火をともすことになる。

(聡)