弟子規/大紀元

弟子規(15)

步(Bù) 從(cóng)容(róng),立(lì) 端(duān)正(zhèng);

揖(Yī) 深(shēn) 圓(yuán),拜(bài) 恭(gōng)敬(jìng)。

勿(Wù) 踐(jiàn) 閾(yù),勿(wù) 跛(bǒ) 倚(yǐ);

勿(Wù) 箕(jī)踞(jù),勿(wù) 搖(yáo) 髀(bì)。

【注釈】

(1)步:路を歩く。

(2)從容:心情が緩やかで慌てていない樣子。

(3)立:立つ。

(4)端正:頭を真っ直ぐにして胸を張る。

(5)揖:右手で拳をつくり、左手の掌でこれを包む礼法。

(6)深圓:腰を深く屈める姿勢。

(7)拜:両手を肘から挙げて敬意を表す。

(8)踐閾:門の敷居を踏む。

(9)跛倚:身体が傾いて、正しく立っていない。歩く時の姿勢が正しくない。

(10)箕踞:両脚を開いて座る傲慢で失礼な座法。

(11)搖髀:貧乏揺すり。

【日文参考】

路を歩くときはせかせかとせず、立つ時は姿勢を端正にし、頭を真っ直ぐにして胸を張る。揖の作法をするときは腰を深く屈め、拝する態度は恭しくする。門の敷居を踏まない。身体は斜めに傾斜させない。坐るときは両脚を広げたり、貧乏揺すりをしない。

【参考故事】

長孫儉は、北周河南の人であり、本名は慶明といった。彼は年少の頃から人柄が端正で、品德は高尚、厳粛であったが、家の中では却って一日中穏便な人であったため、周の文帝は非常に彼を重んじ、改名して儉の名を授け、彼の高潔さと操を褒めたたえた。

後に長孫儉が尚書(群臣が奏上する文章を管理する官僚)の任を賜り、群臣と一緒に起居を共にして皇帝の近くで仕えた際、周文帝は左右の側近にこう洩らしたという。「この人の挙止は物静かにして気品がある。朕は彼と話をするたびに、自らの失態を深く思い知っている」。

荊州(注)が帰属したときには、周の文帝は長孫儉にこれの他三荊等十二州を治めるよう命じた。荊州は未だ未開かつ野蛮な地であり、民風も開化しておらず、若者は年輩者や目上を尊敬することもなかった。長孫儉が苦労して教導した結果、風俗は大いに改良されたので、官吏と人民が陳情書を上申し、長孫儉のために清德樓を建設し、彼を讃嘆する碑を建てたという。

注:荊州,古代の楚国、現在の湖南省、湖北省一帯。古の時は、文化水準が中原より比較的に低く、それゆえ未開の地とされた。春秋三国時代と南北朝の時代には、政治と軍事の緊要地として、兵家が争って求めた。

(竜崎)

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