弟子規/大紀元

弟子規 (19)

見(Jiàn) 未(wèi) 真(zhēn),勿(wù) 輕(qīng)言(yán);

知(Zhī) 未(wèi) 的(dì),勿(wù) 輕(qīng) 傳(chuán)。

事(Shì) 非(fēi) 宜(yí),勿(wù) 輕(qīng) 諾(nuò);

茍(Gǒu) 輕(qīng) 諾(nuò),進(jìn)退(tuì) 錯(cuò)。

凡(Fán) 道(dào) 字(zì),重(zhòng) 且(qiě) 舒(shū);

勿(Wù) 急(jí) 遽(jù),勿(wù) 模(mó)糊(hu)。

彼(Bǐ) 說(shuō) 長(cháng),此(cǐ) 說(shuō) 短(duǎn);;

不(Bù)關(guān) 己(jǐ),莫(mò) 閒(xián) 管(guǎn)。

【注釈】

(1)未:いまだ。

(2)輕:輕易に、軽々しく。

(3)的:的確、真實。

(4)非宜:適当でない。宜しくない。

(5)諾:受け入れて、答える。

(6)茍:もし。

(7)凡:およそ、一切。

(8)道字:話す内容。

(9)重:慎重。

(10)舒:ゆるやか。

(11)急遽:急に、急いで。

(12)模糊:はっきりとしない。

(13)彼說長,此說短:人の長短を話すことを指す。

(14)莫:してはならない。

(15)閒管:余計な事に関わる。

【日文参考】

真相がはっきりとする前に勝手に話してはならない。さらにはっきりとする前に伝播してはならない。するべきでないことを軽易に引き受けてはならない。随意に引き受けると、やってもやらなくても間違いになるからである。

およそ話をするときは、慎重に考慮し態度は急いてはならない。急ぎすぎたり、はっきりとしないことをなおざりにしておいてはいけない。人が他人の長短を言っているとき、自分に関わりのないときには、余計な事に関わらない。

【参考故事】

迦葉佛が世にあった時の話である。ある少年比丘の声は非常に優雅で、佛を賛美する歌に皆が聞き惚れていた。シャー(沙啞)という老比丘がいたが、少年比丘はこの老比丘の声が犬のようだとさげすんでいた。なぜなら彼が羅漢にまで達した聖者であるとは知らなかったからだった。

老比丘が少年比丘に言った。「君はわしを知っているか?」

「ぼくは早くから知っているさ。迦葉佛の比丘だろ」。少年比丘は答えた。

「わしは阿羅漢にまで達して、仏門の行儀、すべてを具足したものだ」と、老比丘は答えた。

少年比丘はこれを聞くと、自責の念にかられた。なぜなら、彼は老比丘が過去世、500回も犬に生まれたのだと悪口を言っていたからだ。彼は、舎利弗に出会って、解脱していたのだ。

あるとき一群の商人たちがいて、他国に商売に行っていた。彼らは一匹の犬を飼っていたが、往路で休憩しているとき、この犬が商人の肉を食べてしまった。商人たちはこれに怒り、この犬を打ち据えた後に荒野に捨てた。舎利弗は、この餓えた犬を憐れみ、食物を与えたうえに仏法の妙法によって、この犬の死後はバラモン(貴族)の家に転生させた。

あるとき、舎利弗は一人托鉢に出ていた。バラモンが彼を見て言った。「尊者一人で、シャミ(沙彌、出家して十戒を受けたが、いまだ比丘の戒しめを受けていない男子)を随行しおられないのですか」

舎利弗は答えた。「わたしにはシャミはおらんのです。聞けば、あなたには息子がいるとか。どうです出家させてシャミにしては」

バラモンが答えた。「私の一人息子は、チュンティー(均提)と申しますが、まだ年若すぎて、随行は無理です。もっと大きくなりましたら、シャミとして送り出しましょう」

この子が七歳になったとき、舎利弗がまたバラモンの家に来たので、バラモンは息子を出家させて随行者として舎利弗に預けた。舎利弗が、彼に仏法の妙法を授けると、彼はまたたくまのうちに悟りを開き、阿羅漢にまで達した。

チュンティ―は悟った後、自分が過去世で悪口を言い過ぎたために一匹の餓えた犬として転生したことを知った。そこを舎利弗に救われ、今世ではまた悟りにまで教導してもらい、苦界を離れることができた。チュンティ―は舎利弗の師恩に報いるため、今世は舎利弗に侍者として仕えることにしたのだった。

(竜崎)

関連記事
われわれが書見をする書斎は整理整頓を心がけ、壁も乾燥させ、きれいにしておくこと。大小の机も清潔に保ち、机の上の文具もきちんと置いておく。墨を摺る時は心を専一にし、墨が偏って減らないように注意する。偏って減るときは、心ここにあらずという状態になっている証拠である。字を書く時は慎重に書く。随意に間違った字を書くのは、既に心性に問題が生じている。
読書をするには、三つの事をしっかりやる必要がある。心で考え理解し、目で見て確認して、口で唱え音読するのである。この三つは非常に重要である。この一書を読み終わらないうちは、別の一書を想ってはならない。読書の計画には余裕があってしかるべきであるが、読書の時には集中力が必要である。時間と労力を費やせば、分からない個所も自然と通じるものである。読んでいてもし心に疑問が湧いたら、即刻に筆記して書き留めておき、人を探して本当の意味を確認しておく。
およそわが身をもって実行しないものは、本の上だけで知識を得て応用を知らないものであり、実践的ではなく、将来どのような人になるか皆目見当もつかない。しかし、盲目的に物事をやってしまって、本の上から知識と経験を学ばないものは、頑固に自分勝手を通しているだけであり、かえって本当の道理を理解できないものである。
人間は同じように見えるが、その性情は大いに違う。大多数の人は平凡であるが、本当に徳性に度量があって高尚な人は極めて少ない。もし、本当に徳性が優れていて高い人であれば、皆が彼を尊敬する。なぜなら、彼はこびへつらって人にとりいったり、嘘偽りで人に付け入ったりしないからである。
家の男女の使用人に対するとき最も重要なことは、自身の言行を端正無私にし、かつ慈しみを厚くして度量を大きくし、苛めたり圧力を掛けたりしない。