弟子規/大紀元

弟子規 (22)

聞(Wén) 過(guò) 怒(nù),聞(wén) 譽(yù) 樂(lè);

損(Sǔn)友(yǒu) 來(lái),益(yì)友(yǒu) 卻(què)。

聞(Wén) 譽(yù) 恐(kǒng),聞(wén) 過(guò) 欣(xīn);

直(Zhí) 諒(liàng) 士(shì),漸(jiàn) 相(xiàng)親(qīn)。

【注釈】

(1)聞過怒:人が自分の過ちを批評したときに怒る。

(2)譽:褒める。称賛する。

(3)損友:自分にとって有害な友。

(4)益友:自分を助けてくれる友。

(5)卻:去る。

(6)恐:不安。

(7)欣:嬉しがる。

(8)直諒士:正直で誠實な人。

(9)漸:だんだんと。

(10)相親:近づく。

【日文参考】

もし人から自分の過ちを批評されると怒り、褒められると喜んでいれば、人を利用しようとする悪い友が接近してくるが、好意から指摘してくれる良い友は離れていく。

人が自分を賞賛している時は歓喜せず、人が自分の欠点を指摘したときには甘んじて受け入れる。このようにしていれば、正直で誠実な人がすこしづつ寄ってきて、良い交友関係を結ぶことができる。

【参考故事】

戦国時代の齊国に鄒忌という男がいて、自分の容貌は人並み以上であると自負していた。ある日、彼は洗顔を済ませ、身支度を整えると、自分の妻に聞いた。「城北の徐公さんと私と比較して、どっちがいい男だろうか?」すると、妻が答えた。「そりゃあ、あんたの方が上よ。どうして徐さんの方が上であろうかしら?」彼はこれを聞いて大変嬉しくなったが、なんとなく腑に落ちないものがあったので、その足でさっそく妾の所に行って同じことを聞いてみた。「私と城北の徐公さんと、どっちがいい男だ?」すると妾は何の躊躇もなく答えた。「徐公さんは、あんたには遠く及びませんよ」。後に、友人が家に来た時も同じことを聞いてみた。「わしと徐公さんと、どっちがいい男かね?」すると友人もすぐにこう答えた。「徐公さんでも、あんたにはかなわないさ」

それから数日経ったある日、城北の徐公が彼を探しに来た。彼がさっそく徐公を頭からつま先まで仔細に観察したところ、彼自身、徐公に及ばないことが分かった。しかし、彼は悩んだ。どうして妻や妾、友人らは自分の方がいい男だと言ったのだろうか。夜、床に就いてからつらつらと考えていると、やっと結論に到達した。

それから日が明けた早朝、彼は齊の威王に拝謁した。彼は事の事情を説明してから続けて言った。「私の容貌は城北の徐公より劣っていたのに、妻は私の方がいい男だと言いました。これは妻が私を愛しているからです。私の妾が私の方がいいと言ったのは、私を恐れているからです。私の友が私の方がいいと言ったのは、わたしとよしみを結んでおきたいからです。彼らは真心から話をしていません。結果、私は蒙昧に陥ってしまいました。この点からすると、宮中の美人で大王を愛していないものはいません。朝廷の文武大臣で大王を恐れていないものはいません。齊国の民で、大王とよしみを結びたくないものはいません。その結果、彼らはみな真心から話をせず、大王の蒙昧は深刻なものとなりましょう」

齊の威王は、これを聞くと、さっそく全国に向けて令を発した。「どのような者であろうと、余の過失を指摘し、諌めたものは厚く褒賞しよう」。このような命令が発せられるや否や、大臣や官吏は先を争って王宮の威王に意見を提出したので、宮廷の門前は大変に賑わい、国は以前にも増して強盛になったという。

(竜崎)

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