弟子規/大紀元

弟子規 (23)

無(Wú)心(xīn) 非(fēi),名(míng)為(wéi) 錯(cuò);

有(Yǒu) 心(xīn) 非(fēi),名(míng)為(wéi) 惡(è);

過(Guò) 能(néng) 改(gǎi),歸(guī)於(yú) 無(wú);

倘(Tǎng) 掩(yǎn)飾(shì),增(zēng) 一(yī) 辜(gū)。

【注釈】

(1)無心:無意識な、故意でない。

(2)非:過失。

(3)名:なずけて。

(4)有心:故意に。

(5)惡:罪惡。

(6)過:過ち。

(7)歸:返る。

(8)無:ない。

(9)倘:もし。

(10)掩飾:隠ぺい。

(11)增:增加。

(12)辜:罪、罪過。

【日文参考】

知らず知らずのうちに無意識に犯すものは「過ち」であり、知っていて犯すのは「悪」である。過ちを知って改めることができれば、それは消失してゆくが、もし嘘を言って隠し通して過ちを犯し、かつ再三にわたって繰り返すことになれば、罪はいっそう深くなる。

【参考故事】

清末、民国の初めに、王善人という人が東北で義学(無償の私学)を開いていた。彼の道徳は高潔で、山東出身の張雁僑は彼に師事し、倫理道徳と病気の関係を勉強していた。

張雁僑が師事を終えて郷里に戻り、病についての解説を始めると効果は素晴らしく、解説を求める人々が後を絶たなかった。彼は常々郷里の人にこう話した。「人にはある心があれば、それなりの性情が生ずる。性情が好ければ貴くなって富を生み出し、性情が悪ければ悩んで病を生じるものだ」。こうして彼は、病人たちに過去に犯した罪を大声で告白させて悔い改めさせ、すぐに病を好転させていた。病人は症状が軽くなると、家に帰ってまずは過ちを認め、それ以降は倫理道徳の実践に励む。すると天も過ちを悔いた者を咎めないのであった。

ある日、彼は蝗の害について村人から相談を受けた。人間の病ならまだしも、蝗とは…と彼は言ったものの、皆はそれを信じようとはせず、再三にわたってせがんだ。彼が村についてみると、なるほど蝗がそこかしこに大量発生していた。

彼はそれを見てにわかに閃き、蝗に語りかけた。「お前たちは天命を奉じて来ているな。ここの村人たちは不忠不孝で道徳に違背しているから、天災として懲罰をしに来たのであろう。私もまた天命を奉じている。ここの人たちに人倫の道を勧めるから、もう青苗を食むことはやめてくれ」

彼は村人たちに言った。「蝗が去った後も、人倫道徳を守ってくださるか」。村人たちは、「はい」と力強く答えると、蝗たちは一斉に飛び去ったという。 

(竜崎)

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