弟子規/大紀元

弟子規 (27)

凡(Fán) 取(qǔ) 與(yǔ),貴(guì) 分(fēn)曉(xiǎo);

與(yǔ) 宜(yí) 多(duō),取(qǔ) 宜(yí) 少(shǎo)。

將(Jiāng) 加(jiā) 人(rén),先(xiān) 問(wèn) 己(jǐ);

己(jǐ) 不(bú) 欲(yù),即(jí) 速(sù) 已(yǐ)。

恩(Ēn) 欲(yù) 報(bào),怨(yuàn) 欲(yù) 忘(wàng);

報(bào)怨(yuàn) 短(duǎn),報(bào)恩(’ēn) 長(cháng)。

【注釈】

(1)凡:およそ。

(2)取與:とったりやったり。やりとり。

(3)貴:重要。

(4)分曉:あきらかだ。

(5)宜:したほうがよい。

(6)將:しようとするなら。

(7)加人:人に対する行為。

(8)欲:のぞむ。

(9)即:すぐに。

(10)速已:すぐにやめる。

(11)恩:恩惠。

(12)報:報いる。

(13)怨:怨恨。

【日文参考】

およそ人と物のやりとりをするとき、知るべきもっとも重要なのは、人に物を与える時は大目に、人から物をもらうときは少な目を心掛ける。人に何かするときは、まずそれを自分の身に置き換えて考え、自分がやってもらいたくないことは、すみやかに人に行うことを停止する。人から恩を受けたら、それに報いるように憶えて置き、恨みは忘れて心に置かないようにする。人への報復は短くし、人の恩恵に報いることは長めにする。

【参考故事】

中国の天恵村という小さな山村に、人を助けるのが大好きな楊という員外(土地の有力者)がいた。彼は、雲水や道士が托鉢に来ると、いつも大きな椀に飯と菜を盛ってやった。隣近所が食糧を借りに来たときは、彼らの苦境を知っていたので、返すことはないと言っていた。

そして隣近所が返すことになると、楊員外は大きいヒョウタンと小さいヒョウタンを半分に切って待っていた。村人が食糧を借りに来ると、大きなヒョウタンで量り、食糧を返しに来ると小さなヒョウタンで量るのである。それで、村人は彼のことを「リョウタンさん」と呼ぶようになった。

彼が八十歳のとき、畑に行くと麦が成熟して成っていた。突然雷鳴が轟き、彼は轟いて動けなくなった。「私はこのまま、麦畑の中で死んでもいい」と考えたが、すると大きな声が聞こえてきた、「雷公、雷母、水龍はよく聴きなさい。リョウタンさんが今家の畑にいるから、決して一滴も雨を落としていけない!」。彼が這い出してみると、畑の麦は全部無事で、他家の麦は全部水没していた。彼は家に戻ると、このことを子女に伝え、天に感謝を捧げた。

(竜崎)

関連記事
われわれが書見をする書斎は整理整頓を心がけ、壁も乾燥させ、きれいにしておくこと。大小の机も清潔に保ち、机の上の文具もきちんと置いておく。墨を摺る時は心を専一にし、墨が偏って減らないように注意する。偏って減るときは、心ここにあらずという状態になっている証拠である。字を書く時は慎重に書く。随意に間違った字を書くのは、既に心性に問題が生じている。
読書をするには、三つの事をしっかりやる必要がある。心で考え理解し、目で見て確認して、口で唱え音読するのである。この三つは非常に重要である。この一書を読み終わらないうちは、別の一書を想ってはならない。読書の計画には余裕があってしかるべきであるが、読書の時には集中力が必要である。時間と労力を費やせば、分からない個所も自然と通じるものである。読んでいてもし心に疑問が湧いたら、即刻に筆記して書き留めておき、人を探して本当の意味を確認しておく。
およそわが身をもって実行しないものは、本の上だけで知識を得て応用を知らないものであり、実践的ではなく、将来どのような人になるか皆目見当もつかない。しかし、盲目的に物事をやってしまって、本の上から知識と経験を学ばないものは、頑固に自分勝手を通しているだけであり、かえって本当の道理を理解できないものである。
人間は同じように見えるが、その性情は大いに違う。大多数の人は平凡であるが、本当に徳性に度量があって高尚な人は極めて少ない。もし、本当に徳性が優れていて高い人であれば、皆が彼を尊敬する。なぜなら、彼はこびへつらって人にとりいったり、嘘偽りで人に付け入ったりしないからである。
家の男女の使用人に対するとき最も重要なことは、自身の言行を端正無私にし、かつ慈しみを厚くして度量を大きくし、苛めたり圧力を掛けたりしない。