ではこの聖徳太子の前世の姿だと言われた慧思禅師は日本と中国の僧侶から尊敬されていましたが、どのような人物だったのでしょうか。
慧思禅師は俗姓が「李」です。若い頃は寛容な性格で知られていました。15歳の時、夢の中で見たインドの僧から出家を勧められ、両親を離れて仏門に入り、慧文禅師のもとで瞑想を学んでいました。
ある日、彼は瞑想中に体が急に重い病になったかのようで、どうしようもないほどの痛みに襲われ、手足の力が抜けて弱々しくなりました。慧思は自己反省し、これは彼自身が過去に様々な悪業を造った結果だと悟りました。
慧思は身体の苦痛を無視し、両手で自分の意識をしっかりと握り、一心不乱に瞑想に入りました。 その後、慧思は自分の体が空に浮かぶ白い雲のように軽くて、とても純粋であることを感じました。
善と悪が共存するこの世では、誰もが修行僧のことを認めているわけではありません。ある日、僧が嫌いな村人は、慧思が住んでいる小屋を燃やしました。しかしその後、その村人は重病になり、どんな治療を受けても効果がありませんでした。
重病になった村人は慧思のところに行って、心から懺悔し、新しい茅葺き屋根を建てました。新しい小屋の中で、慧思はいつものようにお経を唱えたり、仏様に祈りを捧げたりしていました。その後、この村人の病気は自然に治りました。
慧思は、夢の中でよくインドの僧から悟りと教えを受けたり、弥勒菩薩と弥陀(みだ)から仏法の説法を受けました。慧思は「末世に仏陀から教示をいただけることは、誠にこの上なく幸いだ」といつも感銘を受けていました。
昔から今に至るまで、嫉妬によって理性を失い、正法を修行する人に危害を加える実例は少なくありません。慧思は才能と徳行を兼ねており、仏法に対する理解もかなり良かったのですが、彼の知性や才能を嫉妬して、慧思のご飯に毒を盛る者もいましたが、結局は邪悪な企みは達せられませんでした。
これらの害をなそうとする者に対して、慧思は全然気にしませんでした。「昔、聖人が生きていたとき、悪質な流言蜚語に害されることもあった。私は徳が高い者ではなく、これらの迫害は逃げられるわけもない。自分の前世で悪業を造った始末だから。私のことを加害しようとしている人が来たら、自分の罪を全部償うために、率直に受け入れようと思う」と慧思はそう言っていたようです。
(翻訳編集・啓凡)
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