趙銓は医官に推薦され、死の臭いを嗅ぎ取ることができた
趙銓は字(あざな)を仲衡と言い、高唐県(現在の山東省)の出身だった。彼は、飾り気がなく温厚で、医学に精通し、国子監(隋以降、近代以前の最高学府)に学士として入学した経験があった。
明の嘉靖年間、夏言は内閣府長官に就任したばかりで、皇帝に会うために都に赴く予定だった。ある夜、夏言が乗った船が海岸に停泊した。夜も更けてきてしばらくすると、侍従が馬を誘導する音が聞こえ、馬車から真鍮の鈴の揺れる音や、絹や竹が奏でるメロディアスな音が聞こえてきた。それを聞いた夏言一行は、長く宙を見上げていた。
すると突然、空中から「薬王が来た」という声が聞こえてきた。夏言は、「薬王とはいったい誰だ」と尋ねた。するとすぐに「彼の名前は趙だ」と答えが返ってきた。それから声は聞こえなくなった。
その時、遠くから一艘の舟がやってきた。夏言はすぐにその訪問者がただ者ではないと感じ、名前を尋ねてみた。すると舟の中の男は、「私は学者の趙と申します」と答えた。夏言はこれを聞き喜び、月明かりの下、自分の舟に招き話した。この男が趙銓だった。夏言は趙銓を連れて都に赴いた。
趙銓の医術は実に素晴らしく、すぐに都で評判になった。ある時、嘉靖帝の体調が悪く、宮中の侍医たちは途方に暮れていた。夏言は大臣たちと相談し、趙銓に皇帝の治療を依頼することにした。すると趙銓は一組の薬を処方しただけで、皇帝はそれを飲み終える前に元気になった。皇帝は彼に感銘を受けた。
皇帝の寵愛を受け、趙銓は医官となった。しかし、間もなくその職を辞した。そして家で医学書を書き、往診の依頼があれば、喜んで出かけ、患者を治療した後は、余分な金品を受け取らず、貧しい人や困っている人にも薬を配った。
趙銓は非常に腕のいい医者で、太素脈にも長けていた。ある奉行が重病の様で、趙銓に治療を頼んだ。趙銓は奉行の家に着いた時、奉行が昼寝をしているのを見て起こさず、脈を診て、息子の手を取り「脈は安定しており、お父さんは大した病気ではないでしょう」と言った。そして、趙銓は数日分の薬を処方し、病気を治した。
またある日、趙銓が馬に乗り郊外に出ると、人々が死者を棺桶に入れているのが見えた。趙銓は慌てて馬から飛び降り、死者のもとへ行き、遺体にかかっていた布団をはがした。そして周りの者にお湯を持ってくるよう頼み、その中に薬草を入れ、お湯を死者の口の中に入れた。するとしばらくして、死者は生き返った。
皆はびっくりして「棺桶の中の者が生きている事がなぜ分かったのか」と聞いた。「死者は3メートル以内であれば死臭がする。さっき近くを通ったが、臭っておらず、まだ生きていると分かったんだ。そうでなければ、死んだ者の布団を持ち上げるわけがない」と答えた。
趙銓は職を辞した後も修行に励んだ。彼が死ぬ時、部屋は奇妙な香りに包まれ、屋根から明るい光が昇って来た。数日が経ってもまるで生きているかのように見えた。
參考資料:『古今圖書集成醫部綜錄醫術名流列傳』 清‧陳夢雷等
(翻訳・李明月)
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