1984年1月23日、人であふれかえった会議室の中、中国系アメリカ人建築家のイオ・ミン・ペイ氏は最新の設計図の公開のために準備をしていました。物音ひとつ立たない会議室にはどこか重々しくて、奇妙な雰囲気が漂っていました。
映写機を通して最初の画像が投写された瞬間、観客席から一気に笑い声や罵りが混じったブーイングが上がりました。ペイ氏の顔からいつもの笑顔が消えました。彼はどういうことだと通訳の女性に尋ねました。次から次へと上がってくる非難とけん責の声に、通訳の女性は涙があふれそうでした。明らかにフランス人はペイ氏の設計を受け入れられなかったのです。
当時、67歳のペイ氏はアメリカでは著名な建築家でした。ワシントンD.C.やボストン、香港、シンガポール、日本など、世界各地で彼が設計した建物が見られます。しかし彼はフランスで未曽有の敵意と屈辱を感じました。
今回のプレゼンテーションで起きた騒動はほんの序の口でした。実際、今回の騒動は古典派対モダン派、文化遺産対現代建築、右派対左派、国内派対外来文化などなど、フランスの各派間の対立を引き起こしました。
では、ペイ氏はなぜこの争いに巻き込まれたのでしょうか。それは元フランス大統領フランソワ・ミッテラン氏の雄壮な理想と大きな志が原因だったのです。ミッテラン氏が就任する前、ルーヴル美術館は悲惨な状況にありました。この世界最大級の史跡はいくつもの部門に占領され、財政部にも半分ほど徴用され、かつて輝かしかった宮殿はひどい経費不足と資源不足の窮地に追い込まれていたのです。
ミッテラン氏は大統領に当選してから、ルーヴル美術館の復興を個人事業として推進し始めました。彼はかつて作家のアンドレ・マルローと一緒に仕事したことのあるエミール・ビアシーニ氏を国家の重大工程の秘書に任命し、そして、コンテストを行わずに外国人建築家のイオ・ミン・ペイ氏を採用しました。その事は、文化部のジャック・ラング氏の縄張りに侵入し、同時にフランスの建築家たちや博物館館長たち、そして、国家文化遺産の守護者たちにケンカを振っかけたようなものでした。
当時、ナポレオン広場の地下を空洞にして、博物館の入り口と公共サービスの場所にするという計画があり、計画はフランス政府に可決されたので、残りは入り口の設計のみでした。
ビアシーニ氏によると「ペイはルーヴル宮殿の本体に手を加えるつもりはなく、ルーヴル美術館に立体的で光に満ちた地下空間を設けようと計画していたのだ」といいます。また、ビアシーニ氏は
「この構図を実現するには、まず、地上に立体的な要素を作らなければならないとペイに言われた。あの夏の間、彼はこの場所に最も似合う形の建物を探していた。そして、秋、ペイのオフィスに行った時、彼はポケットからガラスの塊を取り出し、それをルーヴル美術館の模型の中庭に置いた。その塊はピラミッドの形をしていたのだ。ペイの設計を理解した私はすぐにミッテラン大統領に電話して伝えたよ」と話しました。
(つづく)
(翻訳編集 華山律)
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