農場には数え切れないほどの白一色の数千羽のアヒルやガチョウがいました。(イッシー / PIXTA)

鴨鵝城で遼の兵士を捕える(二)【楊延昭の伝説】

(続き)

ある日、楊延昭は再び小さな建物に住むようになり、翌朝、夜明け前に急いで起きて戦闘用の鎧を着ました。  

すると、護衛兵が訪ねて来て楊延昭に言います。「こんなに早くにどこへ行かれるのですか?」

楊延昭は答えました。「遼の兵士がくる。急いでみんなを起こしてくれ!」

 

そのことを聞いた護衛兵は、どのように遼の兵士が来ることを楊延昭は知ったのかと疑問に思います。

楊延昭はそのわけを語ります。「目を覚ましてから寝台に寄りかかっていたら、遠くの方で馬の蹄鉄の振動が聞こえ、農場のアヒルとガチョウが落ち着きなく叫んでいたので、遼の兵士に違いないと思ったのだ」。

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