五千年の輝かしい神伝文化における英雄人物 ― 兵仙戦神の韓信

韓信――(1) 剣を持って従軍する【千古英雄伝】

戦国時代の末期、割拠していた諸侯国に取って代わり、秦の始皇帝は天下統一を果たしました。しかし、始皇帝は在位三十七年、巡行中に沙丘(訳注:現在の河北省邢台市広宗県)で急逝しました。

始皇帝は遺詔で、公子の扶蘇が葬儀を執り行い、都に戻って皇位に就くよう命じていましたが、詔書を管理した趙高は、宰相の李斯と結託して扶蘇に死を賜り、末子の胡亥を皇帝として擁立し、秦の二世皇帝になりました。

二世皇帝が王位に就いてから、趙高たちが昔の大臣や王族を殺戮し、始皇帝が苦労して築き上げた帝国は揺れ始めました。

そんな中、二世元年(紀元前209年)、陳勝・呉広は九百名の兵士を率いて、大沢郷で、二世皇帝の統治に挑戦しました。

彼らは陳城に政権を築き、国号を「楚」とし、「張楚」とも呼ばれました。これに応じ地方の反秦の者が自らの勢力を組織し、戦火がいたるところに広がっていき、まるで諸侯たちが互いに勢力を競い合う戦国時代に戻ったようでした。

剣を持って従軍する

群雄たちが並び立つ中、赫々たる家柄と精鋭の軍隊を持つ項梁とその甥の項羽は、韓信の目を引きました。

項梁は楚の名将である項燕の息子で、人を殺害し、復讐を避けるために呉中(訳注:江南地方)に移ってきていました。

彼は信望も高く、地元では彼ほど有能な賢人はいませんでした。項梁はその優位性を活かして、秘密裏に兵士たちを集め、鍛えていました。

陳勝・呉広の蜂起から2ヶ月後、項梁と甥の項羽は呉の地から8千人の兵を統率して江東から渡河し、その途中で陳嬰・英布・呂臣・蒲将軍などの部隊を集め、彭城の東にある秦嘉郡を占領しました。劉邦や韓信も、この過程において項梁の軍隊に加わりました。

その直後、呉広は部下に殺され、同年12月には秦の将軍の章邯が軍隊を率いて陳の地を攻めました。結局、陳勝は車夫に殺され、張楚国は滅びました。

参謀の范増の献言を受け入れた項梁は、楚の懐王の孫である熊心を王に擁立し、自らは武信君と名乗りました。

一方、張楚軍を打ち破った章邯は、魏を攻め、魏王は、斉王に助けを求めました。しかし章邯は、斉と楚の連合軍を大いに破り、斉の将軍の田栄を東阿まで追い詰めました。

田栄が危機に瀕していると聞いた項梁は、即座に田栄を支援しました。この援軍に形勢は逆転し、秦軍は撃破され、章邯は西に敗走し、項梁はこれを追撃し、濮陽で再び章邯を破り、最後は定陶まで追撃しました。項羽と劉邦も雍丘で秦軍と戦い、大勝利を収めて秦の将軍の李由を討ち取りました。

秦軍は大崩れとなり、たまらず章邯は十万の兵力を増援して戦力を補充しました。
韓信はその危険を察知していました。しかし彼は地位が低く、助言する機会がありませんでした。項梁の参謀だった宋義も秦軍の奇襲を防ぐべきだと諌めましたが、項梁は自分の勝利に慢心し、聞く耳を持ちませんでした。

韓信たちの読みは的中し、士気を高めた秦軍は、項梁の無警戒に乗じ、項梁軍に急襲をかけ、ほとんどの兵力を壊滅させました。この戦いの中で項梁は戦死してしまいました。

(翻訳・小隋)