五千年の輝かしい神伝文化における英雄人物 ― 兵仙戦神の韓信

韓信――(3) 劉邦の関中入り【千古英雄伝】

三、劉邦の関中入り

秦軍の主力を打ち破った項羽は「諸侯上将軍」となりましたが、秦の首都である咸陽を最初に奪ったのは項羽ではなく、劉邦でした。

劉邦は、沛県豊邑中陽里(訳注:現在の江蘇省徐州市豊県)で、庶民の子として生まれました。四十八歳の時、沛県で軍を起こしたので、沛公と呼ばれるようになりましたが、若い頃の彼は、正業に就かずぶらぶら遊んで暮らしていました。気前もよく、人脈作りも得意だったので、不良仲間が周りに集まっていました。その後、劉邦は泗水(訳注:沛県の東)の亭長に就任しました。

勉強が嫌いだった劉邦は、骨の髄まで読書人を軽蔑していました。史書によれば、儒者の冠をかぶった書生が会いに来ると、劉邦は相手の冠を脱がせ、その中に小便をし、罵倒していたそうです。

後に劉邦に従い、劉邦の天下取りに貢献した儒者の酈食其が面会に来たときも、門人が酈食其が読書人だと言ったので、劉邦は会うのを断っていました。

しかしその後、酈食其が自分が高陽の酒徒だと名乗ると、劉邦は急いで彼を招き入れ、大いに話に花を咲かせました。

計算高く、情勢に応じて言動を切り替え、自分より能力が高い部下をコントロールする方法を心得ていた劉邦の下には多くの有能な人がいました。また、他人の成果を自分のものにするのにも長けていました。

項羽が秦軍と真っ向から激しく戦っていた時、劉邦は最も危険な戦場を迂回して軍を関中に導きました。その頃、趙高がすでに二世皇帝を弑逆し、秦の帝号を廃していました。

その趙高は、秦王を名乗るしかありませんでした。劉邦が咸陽を攻撃したとき、子嬰は抵抗できず、劉邦に降伏しました。こうして秦王朝は終焉しました。

咸陽に入った劉邦は、咸陽宮の豪華さ、皇帝専用の帷帳、車や馬、財宝、婦女に目を奪われ、混乱した情勢や虎視眈々と狙うライバルの存在を忘れて、宮殿に留まろうとしていました。

樊噲と張良がはそんな劉邦を必死に諫め、ついに劉邦に宮殿と国庫を閉鎖し、軍隊を率いて灞上に引き上げるように説得しました。

劉邦は蕭何の提案により、「法三章」を宣言しました。つまり、人を殺す者は死罪にし、人を傷つけ,盗みをする者もそれ相当の罪にするという妥当なもので、これと同時に、あまりに苛烈だった秦の法律も廃止され、それ以外は通常通りに行われるようになりました。

秦人は大いに喜び、争って牛・羊や酒などを持ち、軍士を饗応しようとしました。

 

項羽の怒り

項羽は自分が前線で生死を顧みず苦戦していたのに、劉邦が最大の勝利や功績を軽々と手にしているのを見て激怒しました。

項羽は鉅鹿の戦いの直後、40万人の勢いさかんな兵を挙げて関中に攻め、咸陽郊外の鴻門に駐屯しました。項羽の策士だった范増は、劉邦が関東にいた時は金と美人に貪欲だったが、今回は財貨も取らず、美人も好まなかったので、大望が有るからであって、手遅れになる前に劉邦を殺すべきだと進言しました。 そして項羽は、翌朝に攻撃を命じました。

10万人しかいない劉邦の軍隊は、楚軍に比べてはるかに力不足で、もし両軍が対決すれば、結果は明らかでした。

項羽の叔父である項伯は、自分の命を救ってくれた張良に恩返しをするために、夜のうちに馬を馳せて劉邦たちがいた灞上に行き、項羽が攻めてくる事を張良に伝えました。 張良は一人で逃げようとせず、すぐに劉邦に知らせました。それを聞いた劉邦は驚き恐れて、どうしてよいかわからなくなりました。

力の差は歴然としており、劉邦は弱みを見せて許しを乞うしかありません。短い話し合いの後、劉邦と張良は項伯を自分たちの天幕に招き入れ、酒を捧げて挨拶し、自分の娘を項伯の息子に与え、姻戚関係を結ぶことを誓約するなど彼を懸命に籠絡しようとしました。

また歓談していた際に、劉邦は、自分は王になる野心はなく、関中でやっていたことはすべて項羽が関中に入るための準備だと伝えました。

項伯は、項羽に口添えすることを許諾しました。次の日に劉邦が直接項羽にお礼を言いに出頭するのを勧めました。

強大な軍隊を持ち、天下を睥睨していた項羽は、劉邦のことなど眼中に無く、項伯の口利きによりわずかの言葉で説得され、灞上を攻める計画を断念しました。

 (翻訳・小隋)