五千年の輝かしい神伝文化における英雄人物 ― 兵仙戦神の韓信

韓信――(2) 項羽の出世【千古英雄伝】

項羽の出世

項梁の死後、彼の軍は項梁の甥にあたる項羽が率いていました。

項羽は八尺以上あるような偉丈夫で才気煥発で力も強く、少年時代には、秦の始皇帝が何万人の人々に敬慕されながら勢い盛んに巡狩しているのを見て、「彼取りて代わるべきなり(あいつに取って代わってやる)」と大言壮語を項梁に吐いていました。

歴史上においても、後世の人々にも「羽の勇姿は歴史上比べられるものが無い」と評されています。

この頃、項羽は、韓信が背が高くて勇ましそうだと見て、護衛の武官である「執戟郎」に任命しました。

破釜沈舟

一方、秦の将軍、章邯は、北上して趙を攻めました。趙の王は諸侯たちに助けを求め、斉国、燕国は、ともに援軍を送り、趙国の将軍である陳余、代国の張敖も兵を連れてきました。

しかし章邯の軍隊は虎視眈々と待ち構えており、誰も秦の軍隊に対抗する勇気はありませんでした。

二世三年の冬、楚の懐王も二つの援軍を派遣し、宋義が上将軍に任命されました。項羽は次将として5万の兵を率いて趙国を救援しました。

安陽に到着した宋義は、四十六日間滞在し、秦と趙の戦いをじっと見守りながら、漁夫の利を得ようとしました。

増援がなければ、趙国は章邯に太刀打ちできなかったでしょう。もし章邯が趙国を攻略したら、次のターゲットは敗れたばかりの楚国のはずでした。

当時、安陽では寒くて大雨が降り、楚軍は食料が不足しし、兵士たちは凍えて飢えていました。

項羽は趙国を救うために北上することを何度も進言しましたが、宋義はそれを拒否し、命令に従わない軍人を斬刑にするように命じました。

項羽は仕方なく宋義を殺し、代理の将軍となりました。 楚の懐王は離れすぎていて、これを認めざるを得ませんでした。

楚軍は秦軍に比べて圧倒的に数が少なく、各援軍も秦軍の威勢を恐れて、陣地を築いて城壁から傍観していました。

単独で戦わなければならなかった項羽はかえって冷静沈着でした。英布に二万の先遣隊を任せて、章邯と他の秦軍との間の支援通路を遮断し、自ら三万の兵を率いて川を渡りました。

そして自分たちが渡ってきた船をみな沈め、釜や甑を破壊し、屋舎を焼き、兵士たちには三日間の糧だけ携えさせました。兵士たちは退却はできません。

死物狂いとなった楚軍は、稲妻のようなスピードで秦軍を取り囲み、全軍が勇猛で多勢の敵に当たりました。項羽は兵士の先頭に立って奮戦し、楚軍は戦えば戦うほど勇気が出てきて、秦軍を恐怖に陥れて、九戦九勝しました。これが「史記」に記されている「破釜沈舟」の故事です。

秦の将軍である蘇角は戦死し、王離は捕らえられ、渉間は降伏せずに自殺をしました。傍観していた諸侯の援軍も驚き、秦軍が退却しだすと、陣地を飛び出して戦闘に協力し、鉅鹿の包囲を解きました。

項羽に一歩一歩と迫られ、章邯は、次々と敗退し、ついに二世三年七月、20万人の兵を率いて、殷墟で項羽に降伏しました。六国を滅ぼし、匈奴をも打ち破った威風堂々たる秦軍の主力は一掃されました。

戦争が終わると、項羽は諸侯の将軍たちを召集し、将軍たちは膝進し、顔を上げている者はいませんでした。

趙王さえも謁見に来て、命を救ってくれた項羽にひざまずいて礼を言いました。項羽は「諸侯上将軍」に擁立し、諸侯軍隊全体の統帥者となりました。

彗星のように突然現れた項羽は、この戦いで名を世にとどろかせました。

(翻訳・小隋)