「教育マニア」【私の思い出日記】

亡き母は、一言でいうと、「教育マニア」であった。次姉が東京の大学に2校合格して、地方誌の合格欄に名前が載った時の母のうれしそうな輝いた顔は鮮明に覚えている。
戦争で苦労し、生家は没落、父も軍人だったため捕虜になり大変な苦労をした。一夜にしてお金は価値を失った。そして人間が身に着けるべき価値は、何か。それは「教育」であるという考えに至るのだ。身に着けた知恵や技術は奪うことが出来ないが持論だった。

私もその言葉を仕事上使ったことがある。あるセミナーの参加を迷っていた人に、「物は、天変地異などでなくなってしまうとゼロになるが、身に着けた教養は、誰も奪うことはできない」「明日、陛下に呼ばれて、着ていくものがなくても借りることはできる。しかし、知性や教養は一晩で身に着けることはできない」と。

母は私達姉妹の教育費を稼ぐために、家でピアノを教えたり塾を開いていた。親友の幼稚園の園長が、卒業生で小学校で困っている子を、母のところにつれて来て、面倒を見ているうちに、天職になってしまった。お米屋の末っ子のA君は、いつもぼおっとして教室でも完全なお客様。心配した両親が、園長さんに相談して、母のところに連れてきた。A君は全くすべてに自信がなく、いつも周りをきょろきょろ見ていた。母はすぐにA君の小学校をたずね、1ケ月後に扱う国語の教科書の箇所を聞き、そして、先生にこの教材に入った時に、A君読んでごらんと指してくださいと頼んだのだ。

その後は、毎日毎日、A君にそこだけを読ませた。そして1ケ月後、その先生は、A君を指名してくれた。A君は特訓の成果があって、すらすらと読んだのである。同級生はみんなビックリして、A君を見直したという。A君は、みるみる顔つきも違ってきた。それでは、次の科目というようにやる気を出していった。
しまいには、小学校の先生が、この子をお願いしますと来る事さえあった。彼女なりの教材も独自に開発した。時代が違ったらもう少し彼女のしたことを形にできたかもしれない。私達子供には、勉強しろとはうるさく言わなかった。でも勉強して進学することは当然という態度だった。

近くにいつもきれいな衣装をまとっている有名な夫人がいた。その人の子供が進学したいといった時に、その夫人は、「うちには、そんな余裕ない」と言ったという話を聞き、母ははっきりと言った。「私はおしゃれしなくても、子供の教育にはお金を出す」と。

子供を見ると勉強を教えたがった。姉夫婦は共働きだったために、両親と同居することになった。その時の義兄の条件が「決して勉強を強要しないこと、勉強に関与しないことだった」。孫にあたる姪は、小学生のころ、帰宅後、おじいちゃんおばあちゃんのいる居間に続く縁側で、おやつを食べながら、本を読んだり、絵を描いたり。明るい日差しのもと、ジジババに見守られながら、それは至福の時だったと言っていた。母がどんなに、「勉強はどう?」という気気持ちを押さえていたかと思うとおかしくなる。