高智晟著『神とともに戦う』(66)頻発する学校死亡事件②
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子供が突然亡くなるというこの世で最も沈痛で悲しい事件が起きてしまったら、理性をもって、そのような悲劇を招いた目に見えない危険と不足点を探し、亡くなった幼い命を、自らの覚醒とするに足る価値あるものにしなければならない。人の模範となるべき学校の教師が故意に子供、それも自分たちの教え子の命を奪うなど、誰だって思いもしないことだが、現実に、子供が学校で死亡する事件が起こっているのだ。
ならば私たちは、その実践において(子供の死亡事件においてすら)絶えず総括し、評価し、安全を完璧に確保できるよう弛まぬ努力を続けなければならない。特に、子供の命を守るセキュリティーシステムは、学校のトップの通常の責任というだけではなく、これは根本的に学校を統括する者の法的職責である。学校を統括する立場の人間が、まさに真剣に自らの職責と向かい合い、自身の職責に畏敬の念を抱き始めてようやく、誠実に安全の大切さに向かうことができるし、一人ひとりの子供の命への敬いの気持ちも生まれるのだ。
もちろん社会や政府は、教員たちが自覚し重視する学校の安全、および子供の命の大切さへ敬いをもつという希望を、教員たちの道義、道徳観に対する自覚に委ねることを許していない。なぜならそれは、危険な状態を放任することに他ならないからだ。決して姑息な妥協をしない司法による戒め、科学的かつ実行可能な規制制度、さらには職務怠慢者の責任を追及し処罰する制度、これらはみな欠かせないものだ。
王敬伊さん死亡事件が発生して後、悲しみに打ちひしがれている王敬伊さんの両親(どちらもすでに50歳余り、王敬伊さんは一人息子だった)を前にして、子供が生前尊敬していた大学の学長は、まるで軽蔑するかのような態度で「自分たちの身分をわきまえなさい。何様だと思っている。どんな資格があって学長を直接尋ねてきたのか」と、冷たくあしらったのだった。
王敬伊さん事件の善後処理の過程で、学校は社会的責任を担うのではなく、責任逃れを核心的な目標にして、自己の利益のために一丸となっている点に、読者諸氏は残念ながら気づくはずだ。更に失望を禁じ得ないのは、学校を所管する部門である教育行政部門が、この事件において責任逃れをし、事件の真相を隠ぺいする共犯者となることを、例のごとく選んだ点である。
教育行政部門は、社会の教育行政部門の職責という自身の任務を忘れ去り、全くあからさまに、ただ学校だけを主管する一つのシステムに過ぎない上級部門に堕落したのであった。「穏便こそ全てに勝る」という病んだ価値観に駆られるがごとく、このような事件が起きれば、判で押したようにいつでも命を奪った学校とぐるになり、あらゆる手段を用いて一切の真実を隠蔽し、死亡した子供の両親や親類の正当な訴えを抑圧するのである。
思わず噴き出してしまいそうな低能な方法で、ウソの文書を出して責任逃れに走る。王敬伊さん事件では、学校を管轄する教育行政部門が終始、そのような責任逃れに躍起になる姿が見られた。高棣君の事件でも、責任逃れのために手段を選ばない教育行政部門の姿を、人々は失望の面持ちで目にすることとなる。
「崇文区教育委員会」の印鑑が押された「崇文区教育委員会による培新小学校・高棣君の保護者に対する回答書」では、以下のように結論づけられた。「調査によると、培新小学校の学校施設は、国の安全基準と規範に合致する。学校の安全制度は健全といえる。
生徒への日常の安全教育や管理へ注意を払っている。事故発生後、ただちに救命活動を行い、ただちに報告し、また保護者のケアのため、非常に多くの人力と資金を費やし、多くのことを行った。このため、学校は『規則』と『条例』の定める相応の職責を実行しており、主観的な過失はない」
子供は現実にすでに死亡、しかも実際に校舎のトイレの窓から墜落して亡くなったのである。「培新小学校の学校施設は国の安全基準と規範をクリアし……」「(学校には)主観的な過失はない」。完全に国の関係安全基準をクリアしていながら死亡事故が起きたというのなら、それは「国の関係安全基準」に漏れがあることと、死亡事故を招く危険な盲点を有効に予防できていないことを、十分に証明しているではないか。
これは明らかに、教育行政部門の汚職が招いた罪悪である。あまりにも簡単な道理だ。この返答の物言いの中には、もちろん管轄部門が有するもう一つの悪習も見えている。つまり厚顔無恥にも、責任者をかばいだてすることだ。「学校の安全に関する制度は整備されており……主観的な過失はない」。
認識能力のあるものならば、誰でも一目でこのウソを見破ることができる。大きくは社会から、小さくは学校まで、安全の保証をなぜ「健全」な安全に関する制度だけに依存できるのであろうか。健全な安全制度に相応する安全保障措置こそが、安全面でミスを出さないための究極的な保障となる。この主管たる行政部門の「健全な安全制度」という迷信は、この国の政府が数十年にわたり無知蒙昧なまま重ねてきた形式主義を、最も忠実にコピーしたものに他ならない。
彼らにとって「健全な安全制度」とは、すなわち安全を保障する価値の全てである。これも我々がよく目にするように、「制度上の壁」の状況下で、死亡事故が尽きないことと最も直接的な関係がある。(訳注、学校および教育行政がいう「健全な安全制度」とは、「学校では学生・生徒の安全が完全に保障されている」という形式のみが絶対的価値であるため、たとえ死亡事故および事件が起きたとしても、反省もなく、改善努力もされず、責任追及もない。そのため学校で同様の事故が絶えないということ指す)
この返答文書から我々が目にしたもう一つの失望とは、死亡事故を招く安全面での手抜かりが明らかに存在するにも関わらず、学校の過失責任を排除している点である。すなわち、民事責任にかかわる権力の配分に関して、行政部門は、一体どこからそのような認定権を与えられているのかということである。
また別の角度から言えば、1つの柵、あるいはたった1枚の金網を窓につけるだけで、このような人命を奪う忌まわしい事故は避けられたのだ。しかし、わずか数カ月の間に、北京の二つの重点学校(訳注、優秀な生徒・学生を集めて、重点的な教育が行われる学校)でそれが発生してしまった。「学校に過失はない」など、誰も納得のいかない、めちゃくちゃな道理に他ならない。
子供が死亡するという事故が起これば、それはただ子供の親に驚天動地の衝撃を与えるだけではない。命は何よりも尊い。この価値観が深く人の心に沁み入り、特に関係部門にある職員の通常の考えとなるべきであろう。しかし、この数件の死亡事故から見えてきたのは、それとは全く逆の状況であり、これに絶望の感すら覚えてしまうのだ。
最後に、私は高棣君の母親がよこした手紙の末尾を引用して、この文章を締めくくりたい。これら素朴で、しかし魂に深く刻み込まれるような言葉の数々は、関係部門の認識を高め、人間性の回復におそらく多少は有益であろう。
「私たちはただ、学校および関係部門が教育に責任を負い、生徒の成長に責任を負う態度で、事実に即してこの件を処理するとともに、相応の責任を取っていただき、不祥事を意義あることに変え、学校管理を着実に良くしていただきたいだけです。しかし、このような私たちの思いに対して、学校側からは返答がありません。
学校はまず、お茶を濁し、硬直状態に陥った後は、開き直って責任を子供に押しつけ、まるで自分たちとは無関係だといわんばかりの様子です。これには、大いに失望しました。学校のこのような態度は決して偶然ではありません。すでに教員たちは、商品社会のなかで自己を見失い、拝金主義によって教師としての尊厳から離反してしまったのです。
子供の教育のため、私たち夫婦は3万元の寄付金を培新小学校に納め、入学させました。私はごく普通の貧しい庶民です。私たち夫婦のように、ともにリストラされている家庭にとって、この負担がどれほど重いか想像に余りあると思います。私は調査したことがありませんが、お金を納めたのは私一人ではなく、私たちが最初の家庭でも、最後の家庭でもないことくらいは分かります。
では、それで代わりにいったい何を得たのでしょうか。教室も教学設備も古びたままである一方、学校のトップの執務室は豪華で、彼ら専用の車もあります。校内の安全問題には麻痺したように無関心で、子供や保護者へも冷淡です。そのことの引き換えに、私たちの子供は、入学して1年という短い時間で夭折してしまったのです」
この原稿を提出する今も、高棣君の遺体は終わりが見えない中、依然として霊安室に安置されている。
2005年4月27日 北京にて
(続く)
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