高智晟著『神とともに戦う』(67)政府が何もしないことこそ国民にとって最大の善行①

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先月私は、メディア数十社が北京友誼賓館で開いた、円明園の浸水防止工事問題の研究討論会に出席した。討論会の後、政府に今何を言いたいかと記者に問われた私は、「現在の政府が何もしないことこそ、中国人にとって最大の善行ですよ」と正直に答えた。

円明園事件の核心はやはり、権力の乱用問題である。中国において、公権力の乱用は日常茶飯事であり、この「人民の政権」が誕生して以来、尽きることはなかった。公権力の乱用が中国人民にもたらした被害はどれほど罪深いものか、全く語りつくせない。

共産党のいわゆる「立ち上がった人民が国の主となって」以来、公権力および公権力を背景とするものが奪ってきた中国人の命や中国人の自由の数は、どちらも第二次世界大戦期にナチス・ドイツが奪ったユダヤ人の命とユダヤ人の自由の数をはるかに超えている。

面白いのは、「文化大革命」が終結しても公権力の乱用という悪行の命脈は尽きなかった、ということだ。逆に、社会全体による手段を選ばぬ擁護の下(というのも、あの研究討論会では、公権力乱用への批判とは無関係の発言に対しては、発言者も聴衆も皆、何も考えずにただ喜色満面の笑みを浮かべていた。

私の発言の時だけ、つまり円明園事件を誘発した原因はルールを全く無視した公権力の乱用だと述べた時、警戒心の強い司会者が紳士的に、しかし断固として私の発言を制止したからだ)、公権力の乱用というその「生命力」はより力強さを増した。浙江省龍泉市の公安森林分局は最近、林樟旺さん(以下敬称省略)など4人が「違法」に農地を占用した事件を処理したが、ここから我々は再度、この種の生命力の強靭さを見せつけられることになる。

浙江省龍泉市の岩樟郷金沅村姚坑自然村には、合わせて26世帯、100人余りの住民が住んでいる。辺鄙で高地、道も狭く危険なので、村の住民は外界とほぼ隔絶され、極貧にあえいでいた。何とかこの苦境を打開しようと、住民たちは道路開通のため、長年努力を重ねていた。

かつて、売れる物を全て売り払って10万元を集めたものの、結局、工事の規模が大きすぎて資金不足に陥り、道路は100メートル余りまで通ったところで、ストップしてしまった。

その後、多方面で努力を長年積み重ねた結果、2004年1月20日、姚坑村を代表する住民20数人の甲と、梅善良など4人(他に林樟旺、林樟法、毛根寿)を代表とする乙との間で、「黄塔村から姚坑村までのトラクター用道路の整備建設に関する契約書」を結んだ。契約書は、遂昌県龍洋郷黄塔村壟下口から龍泉市岩樟郷金沅村姚坑自然村屋内田(地元名は大沅田)までの道路整備費用を乙が出資すると定める。

一方、龍泉市姚坑村の管轄範囲内の森林地の手続きなど政策的事項の大半は甲(姚坑村)が責任を負い、さらに姚坑村の森林地、田畑、墓地、家屋の移転、稲が生育中の田んぼ、樹木に対する補償、障害物の撤去は全て、甲が責任を持って行うと明記してある。契約が結ばれると、林樟旺など4人は40万元を工面して、この村が数世代にわたって夢見てきたことを実現する道路整備へと足を踏み出した。

 

2005年4月20日、数世代にわたり外界と隔絶されてきた現状を変えるトラクター用道路が開通しようとしたその時、人民政府が現れた。龍泉市公安(訳注、日本では警察に当たる)森林分局が突如、違法に森林地を占拠したという理由で、林樟旺、林樟法、毛根寿、梅善良の4人を刑事拘留したのだった。さらに4月30日には、「違法に農地を占拠した」という理由で、林樟旺を逮捕するに至っている。

しかもこの公安局は、4月30日にも林樟旺、林樟法、毛根寿、梅善良からそれぞれ5千元の保釈金を取っていたことが、(私に送られてきた)手紙や資料から明らかになった。しかし同時にまた4月30日(つまり同日に)、「治安」の名義で、林樟法、毛根寿、梅善良などから合わせて6万元の現金も取っていたのだった。

手紙に同封された資料から判断して、龍泉市公安森林分局による林樟旺の刑事拘留および逮捕は、全くの過ちだといえる。林樟法など3人への巨額の罰金などは、強盗行為に近い。しかし公安部門は、弁護士や社会の各界からこのようなやり方は違法だと指摘されても、一向に改めようとはしなかった。

もうこれはすでに、公権力の乱用に発展している。間違っていても改めない。これは実際のところ、白昼堂々とごろつき行為をしているに等しい。この種のあからさまなごろつきによる悪事に対して、冤罪により投獄された林樟旺や「強盗」に遭った林樟法などが戦うべきだけではなく、文明社会、および共産党や政府内にいるヒューマニティやモラルに反対しない者もまた、これらごろつきの所業とは一線を画すべきである。

本案件では、客観的には農業用地という本来の用途が変えられた事実はあるものの、当局のやり方は長年、刑事理論研究の学界で公に非難され続けてきた「客観的な罪のなすりつけ」である。農業用地が占用されたという事実について、まず2点を明らかにしておきたい。一点目は、すでに発生したこの種の占用方法は違法行為なのか、それとも(刑法が適用される)犯罪行為なのか。

二点目は、実際に占用したとされる者は誰なのか。この二点をはっきりさせることが、上述行為が違法なのかあるいは犯罪なのか、およびその主体が誰なのかを確定するために必要な前提条件となる。農業用地の違法な占用には、2つの状況しかない。その一つは、実際上と手続き上の、どちらも同時に違法な状態である。この種の状態は、土地の非所有権者あるいは法的な非使用権者に占用された場合に発生する。

もう1つの状況は、手続き上の占用である。すなわち土地の所有権者がまだ手続きを終えていない状況で占用してしまう場合だ。この手続き上の違法な農業用地占用は、犯罪問題に波及しないことが、長年の司法の実践で明らかになっている。土地使用者は本来、自分の土地を合法的に使用する権利を有するために、実際のところは使用に関する手続きに違反したにすぎないからだ。

この種の手続き違反であっても、関連法規にしか抵触しないものであるため、刑法の適用はふさわしくない。本案件では、土地の集団的所有権を持つ姚坑村が土地権益に関する実質的な資格を有するため、村による使用が明らかに違反したといえるのは、手続き関係の硬直化した関連法規のみに過ぎず、刑法とは無関係である。

 (続く)

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