中国副首相突然の帰国、 北京大規模の口蹄疫発生か?

【大紀元日本5月25日】訪日中の呉儀・副首相は5月23日、中国政府に本国へ緊急召還された。呉儀副首相は小泉首相との会談及び訪日日程を取りやめたことについては諸説紛々となったが、北京の一部の政治評論家らは、考えられる唯一の理由として、北京で大規模の家畜伝染病、口蹄(こうてい)疫が発生したことだという。海外の報道メディアも、呉儀副首相の緊急帰国の理由について、北京郊外で起きた口蹄疫に関係があると報道している。

詫びる言葉もなかった

友好的日中関係を促すはずだった呉儀・副首相の訪日が、小泉首相との会談を直前にキャンセルしたことで、関係改善の雰囲気は冷却化。日本政府は中国を強く批判をし、町村信孝外務大臣は24日、どうしても急用ができた場合、過度に非難すべきほどでもない。しかし、詫びる言葉が一つもないとは、社会ではまかり通らないのだと指摘した。

これに対して、中国側は中央テレビ局を通して日本を強く批判した。中国外交部のスポークマン・孔泉氏は23日、記者の質問に対して、日本の与党訪中団が靖国神社参拝について、日中関係改善にマイナスな発言を繰り返したと批判した。

しかし、北京の一部政治評論家らは、大規模の口蹄疫の発生を原因とする以外、日本訪問と小泉首相との会談をキャンセルするまで、呉儀副首相を緊急召還する理由はないと見ている。

村民は隔離された

実際、中国での口蹄疫の発生についての報道は今月に入って更に増えた。24日、国際先駆論壇新聞は、北京から車で2時間ほど離れた数箇所の酪農場で口蹄疫が発生し、数千頭の乳牛が処分されたと報じた。

ロイター社の報道によれば、延慶村を含む二つの村で、合計二千頭の牛が処分された。牛がたくさん死亡したことで、全地区が既に2週間封鎖されている。外部からの出入りはできないという。

延慶県で化学肥料及び種子販売店の店主は、「付近の農家で確かに口蹄疫が発生した」として事実を裏付けた。また、北京郊外に住む農民・趙氏は、「我々は20日間も隔離されている。北京に出るのは今日が初めてなのだ」と話した。

封鎖された村の住民の話によれば、過去2週間に口蹄疫が発生した二つの村は警察に封鎖され、村民が外部との電話連絡をも断ち切られている。地元の人々は家畜が殺処分されたことは知っているが、原因は分かっていないという。しかし、中国衛生官員及び獣医官員は口蹄疫の発生について否定をした。

疫病を隠蔽、報告を遅らせた

延慶地区の酪農場は、北京で流通している牛乳製品の製造基地であり、北京地区の他に、中国の有名な牛乳製造会社の原料供給源でもある。また、一部の牛乳製品は香港にも出しているという。

南華日報の報道により、今年の3月初旬、中国より香港に送られた16頭の乳牛から「アジア1型」口蹄疫が発見された。香港で初めてこの種の疫病が発見されてから、相次いで7147頭の豚、560頭の乳牛及び120頭のヤギを処分したという。

台湾の行政院農業委員会・植物防疫検疫局は、中国江蘇省と山東省よりアジア1型口蹄疫が発生した情報を受けてから、台湾の畜産業者らに中国など口蹄疫発生地区への見学を控え、偶蹄動物に対してワクチンの予防接種を実施するよう呼びかけている。

中国農業部は疫病の発生10日後に初めて、国際獣疫事務局(OIE)に対して、中国江蘇省や山東省で口蹄疫の発生を報告したが、北京郊外でも同様な疫病の発生があったことに触れなかった。しかし、北京郊外で発生した口蹄疫の情報が少ないため、中国政府側は再び大規模の疫病発生事実を隠す疑いが出ている。

(大紀元記者・許恵安)

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