現代中共社会の汚い不正選挙

中国大陸の各県各郷で先月、指導層である人民代表を選出する選挙が行われた。2006年7月から2007年12月まで、全国2800県、35400郷で、県郷級の人民代表200万人余りを選出しようと、有権者約9億人がこれに投票した。中国選挙委員会のモットーは、「人民100人を代表する窓口100個」であるが、2006年では、独立候補者500人あまりの内、誰一人として当選していない。実際は、政府が投票箱のブラックボックスを操作し、独立候補者は当局の妨害と陰謀に遭遇している。この「独立候補者」とは、共産党組織などの「他薦」によるのでなく、専ら自らの意思で立候補を表明し、10名以上の有権者の支持を獲得した「自薦による候補者」のことである。

姚立法さんは、著名な独立候補者で、ここ20年来選挙に携わってきた。当局は、姚さんの当選を阻止するため、2006年9月から監視を始めた。警察は、有権者が彼に接触しないよう24時間妨害し、姚さんの選挙活動を許さなかった。教育局のある副局長は、「やつを入院させようとしたのだが、それは地下活動を阻止するためだ。われわれは、ただ任務を完遂したにすぎない」と公言した。

2002年末、姚さんは、即刻選挙活動を止めるようにという恐喝電話を受けた。姚さんはとりあわなかったが、数日後町で数人の男に暴行され、脊椎を骨折した。2005年7月、再び暴行され、肋骨を骨折した。同年11月、姚さんが農村に選挙活動に遊説に出た時、屈強な男5人が菜っ葉包丁で襲いかかり、姚さんは頭から流血して昏倒した。姚さんの職場では、何度も嫌がらせを受け、最後には停職に追い込まれ、収入の道が断たれた。2002年、姚さんの当選を阻むため、市の新聞、テレビ、ラジオはこぞって「姚さんが国家文献を盗んだ」と

デマを流した。

呂邦列さんは、中国ではじめて独立候補者として当選した農民だ。呂さんの連続当選を阻むため、枝江市政府は全力を尽くし、これに100万元を投じた。2006年7月、当局は、呂さんを監視するために最高20人を派遣し、自宅に軟禁、いったん出ようとすると警察から尋問を受けた。呂さんの選挙区には、村ごとに選挙幹部10人が待機する駐在所があり、巡視隊も組織されていて、有権者との接触が禁じられた。当局は、呂さんに投票しないよう村民を言い含めた。8月と10月、呂さんは暴漢に襲撃されたが、誰も関知しなかった。12月9日の投票日当日、呂さんは警察に連行され、投票会場には姿を見せなかった。

人民代表に立候補した武漢花橋区内定派出所長・夏義学は、本区のエンジニア・汪国強さんが、対立候補となったため、汪さんを派出所に連行し、深夜まで尋問した。選挙当日、汪さんは、投票箱の不正操作を発見したため、警察に報告した。しかし、逆に派出所に連行され、夏らに暴行され昏倒、失禁した。病院での検査の結果、汪さんの眼球と腎臓は損傷を受けていた。

四川省濾水の曽建余さんは、1992年から独立立候補し、人民代表を連続で二期務めた。当局は、曽さんの失脚を謀って投獄した。これには何の証拠もなく、誰も証拠を収集しなかった。「タクシー運転手を騙した」というデマで、曽さんは現在も獄中にあり、二度と選挙に出ることはないという。

桃集栄さんは、全国労働模範であり、全国人民代表に連続二期当選した。姚さんは、生来廉直で、民のために尽力したため、市民から信頼され、二万人の来訪を受けた。桃さんは1000を超す案件を手がけ、400余りの合理化議案を提出した。選挙民はこぞって「政道の鏡」として桃さんを賞賛し、マスコミも姚さんを採り上げた。

2003年の省人民代表選挙期間中、河南焦作市の選挙管理委員会は姚さんを選挙候補者名簿から削除した。原因は、姚さんがかつて、同市の大火災現場に直面した際に、マスコミに「背後に官僚腐敗がある」と発言したからだった。姚さんは、「かつての代表選挙では、高い得票率で当選したのに…代表として実績だってあるのに・・・どうして代表候補から落選しなくてはならないのか」と落胆している。

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