東京・小石川後楽園:和漢の才人 水戸光圀と朱舜水

【大紀元日本11月1日】奈良朝において日本は、国家の大事業として遣唐使を派遣し、国政の基盤となる律令制度を唐に学んだ。

もちろん、日本が中国文化を受容したのは奈良・平安朝だけではない。鎌倉時代には、国交はなかったが、中国大陸の宋・元との間で交易がおこなわれていた。民間による私貿易であるため物品交易が主であったのだが、特筆すべきはその往来のなかで芸術や文化も確実に伝わっていたということである。

江戸期に入ると鎖国政策が採られたが、長崎だけは海外への窓が開かれていた。江戸初期、中国では漢民族の明朝が倒れ、北方の満州族の清朝に代わろうとしていた。そんな折、万治2年(1659年)に長崎に亡命してきた中国人のなかに、明の遺臣で儒学者の朱舜水(1600~1682)がいた。

この朱舜水を自藩へ招いて厚遇したのが、水戸二代藩主の徳川光圀(1628~1701)である。明末清初、日本へ亡命した明の遺臣や学者を受け入れた日本の大名は多い。それは中国伝統文化に対し、江戸期の日本人が、敬意と礼節をもってこれを迎える堅固な背骨を有していたからに他ならない。

特に光圀は、朱舜水に傾倒したらしい。今日の東京ドームに隣接する小石川後楽園は、水戸徳川家の祖である徳川頼房が造った大名庭園であり、二代光圀によって完成された。その造成に当たり、光圀は朱舜水の意見を大いに用い、園内の各所に中国の風物を取り入れている。

話はさかのぼるが、若い頃の光圀は粗暴であったという。その光圀が18歳のとき、司馬遷の『史記』伯夷列伝にある伯夷・叔斉の物語を読んで感銘を受け、以後、行動を慎み学問に励むようになった。

伯夷と叔斉は、中国古代の殷の末期、ある小国の王子兄弟であったが、父君の亡きあと互いに譲り合って王位につかず、二人とも出国してしまった。周の国へ行ったところ、文王が亡くなって間もないうちに、息子の武王が殷の紂王を討伐する軍を起こそうとしている。二兄弟は、武王を諌めたが聞き入れられない。やがて殷は滅び、周の時代となったが、伯夷・叔斉の兄弟は周の粟を食べる事を恥として首陽山に隠れ、餓死したというものである。孝道と忠節に殉じた伯夷・叔斉は、古来より中国の隠者の理想型とされている。

光圀が、その感銘の証として伯夷・叔斉の木像を安置した得仁堂が、今も園内の片隅に残っている。

そのほか円月橋、西湖の堤、小廬山など、中国の実景からすれば甚だ小さい箱庭のようなものであるが、水戸黄門こと徳川光圀は、見たことのない唐土の風景を自庭の一隅に据えて、漢学を生んだ異国への最大の表敬としたのである。

また後楽園という園名も朱舜水の選であるという。出典は范仲淹(はんちゅうえん)の「岳陽楼記」の一節、「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」による。

北宋の范仲淹といえば、3歳で父を亡くし、粥をすする苦学をしながら学問を修めるという、中国史上でも優れた政治家であり、高潔な文人としても知られている。それを思うと、徳川御三家の一つである水戸徳川家の庭園に、朱舜水が後楽園と名づけたことの重みが改めて伝わってくる。想像が許されるなら、まだ若い水戸家当主に「責任ある良き君主になりなさい」という激励を込めて、老儒者はこの園名を贈ったのではないかと思うのだ。

落ち着いた雰囲気の園内は、まさに都心に残った深山幽谷にふさわしく、紅葉の季節が待ち遠しい。JR飯田橋駅より徒歩8分。開園時間9時~17時、年末年始のみ休園。

朱舜水の設計と伝えられる円月橋(大紀元)

水戸光圀が伯夷叔斉の木像を安置した得仁堂(大紀元)

都心に残る深山幽谷を思わせる空間(大紀元)

(牧)