【大紀元日本12月7日】元禄15年12月14日は、今日の暦で言えば1703年の1月30日に当たる。
ただ日本人は、なぜかこの場合に限って細かいことは問わず、「12月14日」こそ討ち入り当日として疑わないのだ。史実よりも民族的な「好み」が先行した、歴史上の事象としては稀有な例であろう。
赤穂浪士による吉良邸討ち入りは、もちろん実際に起きた事件である。
そもそも、なぜ赤穂浪士が吉良上野介を討ち取らねばならなかったのか。実は、可視的な部分だけを見れば、その行為が「仇討ち」として成立する根拠はないのである。
赤穂藩主・浅野内匠頭は、事件の背景はともかく、江戸城中で刃傷沙汰に及んだため幕府の裁きによって切腹を命じられたのであって、吉良によって直接討たれたのではない。しかも即日の切腹であったため、家臣に「わが仇を討て」と遺言したわけでもなく、言わば、家臣たちが亡君の心中を想像しただけで実際行動に出たに過ぎない。
しかし私たち日本人は、当時も今も、それを暴挙として咎めることはせず、「きっと我が殿は、吉良からそれほどまでの辱めを受けたため、やむなく刃傷に及んだのだろう」という、家臣の「察し」のなかにある忠義の美を好むのである。
歴史的視点から公平な評価をすれば、吉良が浅野に賄賂を求めたのは当時の通常の慣習であっただろうし、浅野に切腹を命じた幕府の裁定は妥当であっただろう。
『仮名手本忠臣蔵』に始まる歌舞伎・映画などの「忠臣蔵もの」では、吉良を悪役に定着させているが、実はそれも史実から離れたところにいる人々の「好み」の産物でしかない。
討ち入りの後、吉良上野介の首級を槍先に掲げた赤穂四十七士の一行は、浅野内匠頭が眠る高輪の泉岳寺へ向かった。吉田忠左衛門の足軽・寺坂吉右衛門が途中で離れたため、ここでは46人になっている。
泉岳寺までの道中、隅田川を渡らなければならない。武装をし徒党を組んで進む一団であったので、江戸城下を直接進むことになる両国橋を渡ることは許されず、同じ隅田川の下流にある永代橋を渡った。
泉岳寺にある亡君の墓前に「仇討ち」本懐成就の報告をした後、46人は四つの大名家へ預かりの身となった。翌元禄16年2月4日(新暦3月20日)幕府の命が下り、大石内蔵助以下46人の赤穂浪士たちは切腹。その名を三百年後の今日にまで残した義士の遺骸は、切腹した当日に泉岳寺へ送られて葬られた。
時は過ぎ、泉岳寺の境内には、浅野内匠頭の墓に付き従うようにして、46人の墓と後に加えられた寺坂吉右衛門の墓、それに討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓がある。
今年もこの時期、多くの人々がこの場所を訪れ、静かに線香を手向けている。声を出す人は、ほとんどいない。
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