【今に伝える江戸百景】 桜田門外の静寂

【大紀元日本11月2日】歌川広重の『名所江戸百景』の中に、「外桜田弁慶堀糀町」と題された1枚がある。

外桜田とは、江戸城本丸に近い場所に内桜田門(別名、桔梗門)があったため、外側のこの門を外桜田門として区別していたことによる。弁慶堀は、今日の桜田濠にあたる。

Jr有楽町駅、または地下鉄の日比谷駅を出て皇居方向へしばらく歩くと、この風景に出会う。浮世絵の構図の奥が、現在の憲政記念館と最高裁判所にあたる。

桜田濠を挟んで立つのが警視庁の本庁舎。その警視庁の別名にもなっている江戸城・桜田門は寛永年間(1624~1644)に造られているが、現存する門は寛文3年(1663)に再建されたものを基に、更に大正12年の関東大震災で破損した箇所を修復して復元したという。

初代歌川広重は幕末の安政5年(1858)に没している。死因は当時江戸で流行したコレラに罹患したためとも言われているが、そのわずか1年半後、自身が浮世絵に残したこの桜田門外で、雪を血で染める大事件が起きるとは想像だにしなかっただろう。

安政7年3月3日(1860年3月24日)の午前9時ごろ、桜田門外の変、勃発。

春の大雪に見舞われたこの日、登城のため、現在の憲政記念館あたりにあった彦根藩上屋敷を出た行列が桜田門にさしかかったところを、薩摩藩士1人と水戸脱藩浪士17人が襲撃。徳川譜代の彦根藩主であり幕府大老の井伊直弼が、江戸城の門前で斬殺された。

日米修好通商条約に独断で調印し、日本の開国を断行したうえ、反対者を次々に粛清(安政の大獄)する強権を振るった井伊直弼が、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を一身に受けたことがその背景にあるとされる。

この襲撃事件が徳川幕藩体制に与えた衝撃の大きさは、ペリーの黒船来航の比ではなかっただろう。その是非について述べるのではない。この事件によって、草莽の下士から諸国大名・幕臣に至るまで、その後の数年間にわたる命懸けの歴史が、ついに始まったことを否応もなく思い知らされたからである。急流の岩が転がりだした発端が、この地での出来事であった。

それから150年後の今。平日の午後に訪れた桜田門外は、外国人観光客が撮影するシャッター音と、ゆっくりと走り過ぎるジョギング愛好者の足音が聞こえる以外、歴史が化石化したような静かさに包まれていた。

桜田門付近から最高裁方向を望む(大紀元)

皇居のお堀端をジョギングする人々(大紀元)

現在の江戸城桜田門(大紀元)

※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。目録表紙と117枚の図絵(二代目広重の2枚も加えると119枚)からなる。

(牧)