【今に伝える江戸百景】「夏草や兵どもが夢のあと」千葉県・矢切の古戦場

【大紀元日本9月13日】 表題の一句を松尾芭蕉が詠んだ場所は、もちろん奥州平泉である。

このとき芭蕉は高い場所に立って広い眺望を得ており、北上川の雄大な流れを眼下に見ていた。その流れの不変であることと対照的に、奥州藤原氏三代の栄華も一睡の夢のように儚いものであったと、杜甫の漢詩「春望」の一節「国破れて山河在り」をふまえながら、芭蕉は懐旧の涙とともにこの一句を残したのである。

歌川広重の『名所江戸百景』の中に、「鴻の台・利根川風景」と題された1枚がある。

「鴻の台」とは、同じ発音の地名である国府台(こうのだい)のこと。また、ここで「利根川」と呼んでいる川は、今日の東京都と千葉県の境を流れる江戸川を指している。おそらく当時は、利根川水系というような広い概念で、総称的にこう呼んでいたのだろう。

浮世絵の遠景に白い富士山が描かれているが、実際にはこの方向に富士山はない。広重は、非常に細やかで写実的な描写をする一方、自分の好む富士山や筑波山を、実景とは関わりなく背景に配置したりもするのだ。

さて、冒頭の芭蕉の一句をふと思い出したのは、先日、東京にほど近い江戸川の対岸、千葉県の矢切を歩いたときであった。

古戦場の名残を地名に残す矢切は、現代の行政区分に従えば松戸市に属する。そこから南の市川市にかけての一帯が国府台であるが、ここは戦国の昔、関東の覇者・北条氏と房総半島に勢力をもつ里見氏が激突した場所であった。

国府台合戦と呼ばれる戦いは、厳密に言えば1回だけではない。その最後の回である永禄7年(1564年)1月、北条氏康の2万の兵を迎え討つため、里見義弘は8千の兵をもって国府台に布陣していた。北条軍の先発隊を退け初戦に勝利した里見の軍勢は、ふるまわれた祝い酒を飲み、気を緩めていた。そこへ、一度後退したと見せていた北条軍が夜明け前に奇襲をかけた。里見軍は不意を突かれて一気に崩れ、房州の奥へ潰走したのである。

さて平成の今日、東京側である江戸川の西岸には映画「男はつらいよ」の舞台となった葛飾・柴又の町がある。京成線の柴又駅前に立つのは、主人公・車寅次郎が旅に出る姿のブロンズ像。地元では、寅さんは亡くなったのではなく、今も長い旅に出ているのだそうだ。

帝釈天の参道を抜け、江戸川の土手に登ると一気に視界が広がる。遠くの対岸には下総台地の森。奥州の北上川には及ぶまいが、昔と変わらぬ江戸川の流れがゆるやかに横たわる風景は、ここが東京であることを忘れさせてくれるような風情があって、なかなか捨て難い。

江戸時代の初期から続くという「矢切の渡し」は、今は観光客向けになっているが、もともと地元の人が生活に利用していた実用の渡船であった。そのせいか、ここの渡しの船頭さんは、観光地の遊覧船のそれのようにべらべらとしゃべったりせず、乗客に安全上の注意をした後は、ただ黙って櫓を漕ぐだけなのだ。

静寂のなか、小舟は進む。東京湾の潮との関係であろうか、この時江戸川の流れは全くなく、鏡のような水面であった。時折、ウグイが飛び跳ねる以外、全く音のない川面に櫓のきしみだけがわずかに響く。相変わらずの厳しい残暑であったが、木造の和船に揺られたひと時は、実に心地よく爽やかなものであった。

数分で対岸の矢切に着く。夏草と木々が生い茂る川岸の風景のなか、汗を拭いながら南の下流方向へしばらく歩くと海抜25メートルほどある高台の公園に至った。里見公園として小学校の遠足などで親しまれてきたこの場所は、戦国の昔には国府台城という城が置かれていたという。その公園の一角に、国府台合戦で討ち死にした里見弘次の娘が、悲しみのあまり泣き伏して息絶えたという「夜泣き石」がある。以来、後人による供養がなされるまでは、夜間その石から泣き声が聞こえてきたと言い伝えられている。

猛暑の夏も、ようやくここまで。眼下に江戸川を見下ろす里見公園は、秋にはバラ、春には桜の名所となる。

鏡のような川面を静かに滑る矢切の渡し舟(大紀元)

昔ながらのたたずまいを残す矢切の渡し船着場(大紀元)

柴又駅前の寅さん像は格好の撮影ポイント(大紀元)

江戸川の流れは、江戸の昔と変わらない(大紀元)

※『名所江戸百景』 江戸末期の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が、最晩年の1856年から58年にかけて制作した連作の浮世絵。作者の死後、未完成のまま残されたが、二代目広重の手も加わって完成された。目録表紙と117枚の図絵(二代目広重の2枚も加えると119枚)からなる。

(牧)