【呉校長先生の随筆】 ー記憶の宝箱ー

【大紀元日本1月4日】来月に卒業を控えた中学3年生のりゅう君は、無理やり両親に学校へ連れて来られました。2時間の面談の間じゅう、ひと言も話さないまま座っているだけのりゅう君。りゅう君の父親からは、「息子の気性はキレやすく、すぐカッとなり、交友関係がとても複雑です」と聞いていました。学校の成績は悪く、良くない習慣が身についていて、親と口論を始めると聞くに堪えない乱暴な言葉を吐くので、家族全員が彼のことを諦めたといいます。りゅう君の父親は、今日の面談でりゅう君を諭すことができなければ、警察署の少年補導課に委ねるしかないと話しました。

私はネクタイを整え、コーヒーで頭をすっきりさせ、午後の面談に臨みました。りゅう君の幼少時代にあった温かい記憶を思い起こさせ、ギクシャクした親子関係を修復させるつもりでした。

午後2時に、りゅう君一家は校長室に到着しました。りゅう君は母親の隣に座り、父親とは向かい側になりました。これが、3人の親子関係を物語っていると感じました。父親は、りゅう君に挨拶するよう促しましたが、りゅう君はそれを無視しました。そして、私を敵意に満ちた表情で睨みました。まるで、私に「説教など真っ平だ」と言っているようでした。りゅう君のような生徒に説教が無駄であることは私にも分かっているので、彼の態度を気にしないようにしました。

私がお茶を一口飲むと、彼の父親は早速、りゅう君の落ち度を一つ一つ指摘し始めました。2人が喧嘩になる前に、私は両親に「りゅう君の幼い頃の話を聞かせてください」と真摯な態度で提案しました。すると、幼稚園の先生をしているりゅう君の母親は、「息子が生後6カ月の時、ちょうど夫が単身赴任で遠くへ行ってしまう日の前夜でした。りゅうとはしばらく離ればなれになるけど・・・と、大の男がりゅうを抱きしめ、ほっぺにキスをしたり、顔を撫でたりして、ワンワン泣いていました。最後に、おでこに強くキスをしたら、唇の跡がついてしまいました」と、まるでついこの間の出来事のように泣き笑いしながら話しました。

父親は話を聞きながら赤面し、りゅう君は自分の額の汗を拭いたりしていました。私は、「お父さんは本当にお子さんがお好きなんですね。りゅう君は、小さい時はきっと可愛かったのでしょう」と話しながら母親に続きを話すよう促しました。

「息子が3歳の時、風邪で高熱が出て鼻が詰まり、呼吸ができなくなった時に、夫は息子の鼻の中に詰まっていたドロドロの鼻水を口で吸い出しました。母親の私でさえやれないかも知れないことを夫が・・・」と母親は語りました。

私は、「医学の観点から言えば、その行動は不適切かも知れませんが。でもお父さんは、本当に素晴らしいですね」と称え、同時にりゅう君をチラッと覗きました。さっきまで眉間にしわを寄せていたりゅう君の表情は少し穏やかになり、両目も少し優しくなりました。額を触っていた手は、恥ずかしそうに鼻の先を軽く触るようになりました。

記憶の扉を一旦開けたら、中のものは次々と出てくるものです。父親と子どもの多くの思い出話を聞いているうちに、4人がいる応接間の雰囲気も和やかになりました。りゅう君の父親はきっと、彼がこの2年間で大きく変わってしまったため、親子の間にあったかつての楽しい思い出も忘れてしまったのでしょう。2時間があっという間に過ぎ、最後に私は父親にも思い出を話して下さい、とお願いしました。

すると父親は、「りゅうの誕生日の5月13日、それはりゅうが6歳の時ですが、私はバイクで仕事へ出かけていました。勤務先までの道のりは遠く、山道もあり、結構大変でした。その日はあいにく雨で、私は誕生日のケーキの箱を、着ているカッパの内側に隠してゆっくりとバイクで帰宅していました。その時、道路が大きくへこんでいるのに気づかず、バイクと共に滑って転んでしまいました。ケーキは無事でしたが、右ひざを数針縫うケガを負いました」と語りました。

「傷はまだ残っていますか?見せて頂けますか?」と父親に聞くと、ズボンの裾をまくり上げて見せてくれました。私はそれ以上、何も言うことはありませんでした。面談終了後、私はご両親に「偶然にも今日は5月13日。りゅう君の15歳の誕生日ですね。何かお祝いをしたらいかがですか。そして、今度機会があれば、りゅう君の7歳以後の思い出話を聞かせてください」と話しました。

それから、彼の両親は一度も校長室に現れることはありませんでした。

※呉雁門(ウー・イェンメン)

呉氏は2004年8月~2010年8月までの6年間、台湾雲林県口湖中学校の第12代校長を務めた。同校歴代校長の中で最も長い任期。教育熱心で思いやりのある呉校長とこどもたちとの間に、たくさんの心温まるエピソードが生まれた。

(翻訳編集・大原)