<心の琴線> 二月の教室の少女

【大紀元日本2月16日】遠い記憶の二月。詳しく言えば36年前の二月である。

あと少しで卒業する小学校教室に、西日が深く差し込んでいた。放課後の、かなり遅い時間だったので、廊下にも、教室にも生徒の気配がない。本当に誰もいないのだ。

そのためか、この記憶からは、一つの例外を除いて音が全く聞こえない。自分の足音さえ無音なのだが、確かにその中で、36年前の私が、誰もいない廊下を歩いてきて自分の教室に入った。何の用で教室に来たかは忘れた。机の中の物でも取りに来たのだろう。

誰もいないと思って入った教室に、自分以外の人がいた。

同じ学級の女子が一人。ただ、彼女の方は、入ってきた私にほとんど気づいていない。

彼女は、担任も同級生もいない教室で、手に箒を持って掃除をしていた。この記憶の中から聞こえる唯一の音は、教室の床をこする箒の、かすかな摩擦音だけだった。

その後の私の記憶は、ない。おそらく、そのまま見ないふりをして教室を出たはずだ。

彼女の名前は覚えている。成績は中ぐらい。あまり目立つことのない、ごく普通の女子だった。今のような学校選択制はなかったので、ほとんどの生徒が同じ中学へ進んだ。中学卒業後の彼女は、どこかの定時制高校へ進んだと後から伝聞的に知った。

その後、二月の教室で掃除をしていた少女の姿が、私の記憶の中で「絵」になった。

誰もいない教室を掃除をするという彼女の行為は、もちろん担任が指示したものではなく、「教室をきれいにしましょう」などという教育の結果でもない。彼女は無為の行為として、掃除しようと思うこともなく、当たり前のようにそれをしていたのだ。

記憶の糸をたどってみた。確かに彼女には、テストで95点を取る生徒とは違う、人間の素朴な輝きが少女時代からあったように思う。おそらく彼女の家庭が、そういう環境だったのだろう。その中で自然に身につけた人間の美徳は、時として点数や成績を圧倒する。

小・中学校を通じて同じ学校ではあったが、彼女と直接話をしたことは一度もなかったと思う。ただ、学校を卒業して長い時間が経ってからも、私のほうは彼女のことを覚えていた。感情の種類としては、恋愛というのではなく、学ばせてもらったことに対する感謝の気持ちに近い。

昨年の秋、中学校の同窓会が催され、33年ぶりに懐かしい旧友に会う機会が持てた。

二月の教室の彼女も、その会場に来ていた。私から少し離れたところに見た彼女は、あの頃と全く変っていなかった。

私は36年前に見た二月の教室の光景を、「ありがとう」という言葉とともに、彼女に告げたい衝動に駆られた。しかし、他の女子の旧友と談笑している彼女のところへ行って、それを口にする勇気は、残念ながら私にはなかった。

私は、それで良かったと思うことにした。

(鳥飼)