【大紀元日本2月27日】名塩は兵庫県西宮市の北端、名塩川に沿った山間の集落である。かつては「名塩千軒」と呼ばれるほど紙漉(す)きの盛んな土地だったというが、現在、残るのは2軒のみとなった。その1軒が谷徳製紙所である。
名塩に紙漉き技術が伝わったのは、1600年頃といわれる。米作に向かない寒村、名塩村の東山弥右衛門という若者が越前(現福井県)へ出向き、苦心の末、越前の紙漉き技術を持ち帰り、さらに名塩でとれる泥土を混ぜて漉くという名塩特有の技法を開発した。その良質の紙は大いに珍重され、名塩は紙漉きの村として栄えた。名塩紙漉きの始まりについては、諸説あるが、当時、紙漉きのような生産技術は門外不出であり、他所者がそれを習得することは至難の業であった。水上勉はこの話に想を得て「名塩川」という小説を残している。
和紙の三大原料は、楮(こうぞ)、三俣(みつまた)、雁皮(がんぴ)である。それぞれの特長について、民藝運動を起こした柳宋悦は次のように表現している。
武士のように強壮な楮
官女のように典雅な三俣
王妃のように気高い雁皮
「名塩紙」は王妃のように気高いといわれる雁皮紙である。近辺の山中に自生する雁皮に、やはり周辺で採掘される凝灰岩から取る泥土を混入して漉かれる紙は光沢があり、きめが細かく、書画用紙の「鳥の子紙」として、水墨画や大和絵を描く襖紙「間似合紙(まにあいがみ)」として大いに好まれた。泥入り間似合紙は、虫がつかず、燃えにくく、湿度による紙の伸び縮みがなく色褪せもしない、という特質を持つ。
雪曇りの名塩に、谷徳製紙所の後継者、谷野雅信さん(40)を訪ねて話を聞いた。谷徳製紙所では、現在、重要文化財の修復に欠かせない「間似合紙」と金箔を延ばす時に用いる「箔打ち紙」を主に漉いている。雅信さんが紙漉きを始めたのは8年前。父、谷野武信さんが人間国宝に指定されたのを機に、一時離れていた名塩に戻り、本格的に紙漉き技術継承の修業を始めた。
紙漉きには冬の厳しい寒さが必要だという。山水を引いた漉槽(すきぶね)の水は身を切るほどに冷たい。それに、泥土を混ぜる名塩の紙漉きは「溜め漉」という手法を用いるため、女性の漉き師が多い「流し漉」と違い、体力が要る。「なかなかきつい仕事ですね」と言うと、「慣れれば、それほどでもありません」と雅信さんは笑った。
人間国宝の技を継承するというのは、責任が重い。「プレッシャーを感じないと言えばうそになります」と雅信さん。「古き良きものへのノスタルジーとして、保護するだけではなく、現在に活きる紙を漉き、雇用を生み出せるところまでにしたい」と抱負を語る。簡単、便利を追及する風潮が主流である現在、需要は伸びるのだろうかという問いに、「良いものを作れば、需要は伸びます」ときっぱりと言う。
雅信さんが力を入れるのは書画用の「鳥の子紙」。谷徳製紙所の中に別ブランド「洪哉(こうや)」を立ち上げて、泥を入れない光沢のある「鳥の子紙」、草木染の手法で色付けした書画用紙などを漉いている。江戸時代の絵師だけではなく、近代絵画の梅原龍三郎なども発色がいいというので好んで使ったという「鳥の子紙」である。現代の、あるいは未来の書家、画家がその良さを評価しないわけはないだろう。
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