【味の話】 饅頭(マントウ)

【大紀元日本9月13日】饅頭マントウ )とは、小麦粉に酵母を加えて発酵させた後、蒸して作る中国の蒸しパンのことを指し、日本の饅頭(まんじゅう)のルーツになったといわれています。小麦粉を使った伝統的な食品で、一般に直径4cmから15cm程度の半球形、または6~7cmの短い蒲鉾型をしています。歴史的には、中に餡や具が入っていましたが、現在は中に何も入っていないのが普通で、中に餡や具が入っているものを包子(パオズ)と呼ぶようになり、区別されています。華北や東北地方一帯は寒冷地で降水量がそれほど多くないため、小麦の栽培に適しており、伝統的に麺類またはマントウが主食として食べられています。上海・香港など、華中・華南で出されるマントウは上記のものより小さく、主食ではなく軽食(点心)として食べられているようです。 

3世紀、三国時代の蜀の宰相・諸葛亮は、川の氾濫を沈めるための生贄として、生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせるため、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込みました。すると、川の氾濫が静まったという言い伝えがあります。これが饅頭の起源とされています。このことは『事物紀原』巻二の酒醴飲食部や『七類修稿』に記載があるとされています。その後、饅頭を川に投げ入れるのはもったいないので、祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったそうです。

一般に、中国の北部(華北)で主食とされている饅頭(マントウ)、別名「饃饃」(モーモ)は、粘りを出すのに用いる塩を除いて、味は付けられておらず、小麦粉と酵母の持ち味しかありません。このため、一般に炒め物やスープのような料理とともに味わいます。一方、子供向けに砂糖を入れた生地で作られる種類もあります。

日本で中国のマントウに似た食品としては、松山市(愛媛県)の「労研饅頭」(ろうけんまんとう)が挙げられます。労研饅頭は、昭和初期、倉敷の労働科学研究所が満州の労働者の主食であった「饅頭」(マントウ)を日本人向けに甘くアレンジしたのが始まり。小麦粉で作る饅頭は安価に製造できるため、松山夜学校奨学会で製造をはじめ、夜学生に学資を確保するとともに彼らの主食にすることを企画し、販売していました。戦火で岡山県や京阪神では労研饅頭の酵母が途絶えてしまいましたが、松山市の業者だけがその当時からの酵母を受け継ぎ、現在も甘みをおさえた素朴な味を作り続けているとのことです。

中国の饅頭(マントウ)とは製法が異なり、酵母を使用しない日本の饅頭(まんじゅう)は日本人にとって最も身近な和菓子です。その伝来時期については、ふたつの説があるようです。

ひとつは、1349年に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたといわれています。奈良の和菓子店「塩瀬総本家」の祖である林淨因が、肉食が許されない僧侶のために小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げたもので、ふくらし粉を使った「薬饅頭」を生みだしました。その画期的な甘味は、寺院に集う上流階級に大変評判がよかったといいます。もうひとつの系統は、林淨因が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241年、南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われ、甘酒を使った「酒饅頭」が原点ともいわれています。

最近では日本に定着した後、餡や皮の製法にさまざまな工夫が凝らされ、種々の饅頭が作られるようになりました。カレーまんやピザまん、バナナまん、また中国には存在しない日本独特の中華まんなども最近では見受けられます。

(文・大鬼)