「文化」のもつ原義

 「文化」とは本来、英語のカルチャーに相当する訳語ではなく、2000年以上の歴史をもつ堂々たる漢語であった。

 漢語としての文化の原義は何か。それは「人間を正しい方向に導くこと」である。類義語を挙げるならば「教化」にやや近いが、教化は、文化の全てを網羅することはできない。

 諸橋轍次大漢和辞典』の「文化」の項には、第一に「刑罰威力を用ひないで人民を教化すること」とある。つまり刑罰で脅すのではなく、人間に道徳心を持たせて善に向かわせ得るものだけが「文化」の称号を冠する資格を認められるのである。

 もちろんそれは、人間の精神を根本から正し、徳を積ませ、正道へ導くという崇高な教育的使命と膨大な宇宙のエネルギーを帯びて、先史時代から今日に残された真の文化に限られる。

 文化を喪失した人類

 ところが、今日いうところの文化はどうか。日本のそれに限って見ても、まるで精神の箍(たが)が外れたかのように、人間の形態ならば何でも「~文化」と呼んで無秩序に許容する、安易な言葉に変異してしまった。

 とりわけ、珍奇なものをそう呼ぶ傾向があるので困ってしまう。例を挙げるつもりはないが、若者文化、おたく文化などは、いったい何が「文化」なのだろうと首をかしげてしまうのだ。下着が見えるほどズボンが下がっている若者が今もいるのかは知らないが、あれは事故的にそうなったのではなく、わざとそのようにしているらしい。それも若者文化だと言われることには、世代の差のせいか、はなはだ脱力感を覚える。

 いずれにせよ、服装の乱れや言葉遣いの悪さは客観的に見よいものではないから、もとより善でも文化でもないのである。

 日本を卑下する意図は、本論にはない。ただ、背筋がぴんと伸びるような清々しい文化が失われつつある現状には、日本人として(やや大げさかも知れぬが)憂国の念さえ禁じ得ないのだ。

 日本が担う文化的責任

 日本は、地理的に見て、中国の東方沖というおもしろい位置にその島を浮かべている。

 その日本、つまり我が国は、中国文化を大いに受容しながらも中国とは微妙な距離を保ち、日本独自の歴史を刻んできたという、これまた「おもしろい道のり」を歩んできた。

 中国的視点から見れば、そんな日本はあまり好ましい存在ではない。

 儒教を例に挙げれば、中国が本家本元の師であり、朝鮮はそれを国家体制の骨髄にまで浸透させた「優等生」。海を隔てた日本はと言えば、学問教養としては儒教を受け入れたが、科挙などの制度にはしなかったので、「師にそむく不良生徒」という位置づけになろう。

 「東夷の分際で生意気な」という中華の憤慨が聞こえてきそうだが、日本がそのような地理的位置に配せられたのは神の仕業なので、いたしかたない。日本は、不良生徒であったことが幸いして、古着を脱ぎ捨てるような簡単さで20世紀の近代化に移行できたのである。

 ただし、今の中国には失われながら、日本に残されていた中国伝統文化もある。ちょうど日本が保管庫の役割を果たしたような形になった。途絶した銘酒の麹が思いもかけない場所に保管されていたようなものであるが、だからこそ、中国伝統文化の復興に日本が貢献する責任は、他の国にもまして大きいことになる。

 近代中国の苦悩

 一方の中国は大変だった。

 近代化に出遅れた祖国をなんとかしようと、百年前の、ちょうど五四期前後の知識青年たちは奮闘した。奮闘というより、「焦った」といったほうが正確かも知れない。近代国家は、一人ひとりが「個」として独立しなければ選挙も民主主義も実現しえないのだが、巴金の長編小説『家』にも描かれているように、中国の社会には宗族という血族集団がダンゴ状に固まっていて、これを離脱して「個」になることはほとんど不可能に近かった。

 その焦りからくる模索が、一部の青年による伝統文化否定(ここには文化に対する彼らの誤解がある)、あるいはマルクス主義受容へつながった。ただしこの時点では、幸いなことに、伝統文化の破壊という最悪の事態には至っていない。

 本当の不幸は、1949年に中国共産党(中共)が政権を奪ってから始まる。

 中共は暴力そのものであった。当然ながら正統な文化を認めない。だからそれを敵視し、徹底的に破壊した。しかも残酷なことに、その破壊行為を人民相互にやらせたのである。

 親子の間でも容赦ない政治的批判が強要された。中共の政治運動は闘争以外の何ものでもないが、とりわけ1966年からの文化大革命(という名の文化大破壊)はすさまじく、中国の伝統的価値観はズタズタに引き裂かれた。中国において文化は絶えたのである。

 正統文化の継承者

 本論の主題である文化にもどる。ここでいう文化とは、いかなる時代の流れにも変わらず、継承されるべき正統な文化を指す。

 それは純善・純美の文化であるとともに、人間を正しく導き、人類を復興させる真の文化のことである。その唯一無二の継承者であり、世界に感動の嵐を巻き起こしているのが神韻芸術団による世界ツアー公演なのだ。

 神韻は、それを見た観客をあふれるほどの感動で包み込み、その後の人生さえも変える圧倒的な力をもつ。変えるとは、もちろん真の文化の使命である「人間を正しい方向に導く」ことの結果であるが、それはいかなる国の人々からも歓迎される普遍的な金色の光なのだ。

 今こそ、日本も中国も、そして世界人類も、正統な文化の力によって復興されなければならない。来年2月、神韻が日本へ来る。その文化の美しき使者を、私たちは両手を広げて迎えよう。(続く)

 

(牧)