【大紀元日本12月12日】東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災から9ヶ月が経つ。大紀元英語版の米国支局記者シンディ・ドルーキエが10月中旬、甚大な津波の被害を受けた宮城県にて現地取材を行った。11月17日付(ウェブ版)に掲載されたものを、大紀元日本では今週の月曜から土曜にかけて連続6回にて掲載する。
東北新幹線で仙台で降りた。一見したところ、8カ月前の日本史上最強のマグニチュード9.0の大地震の傷跡は見当たらない。震源地に近い都市であったにも関わらず、駅前の被害は大事に至らず、急速な復興を遂げているようだった。
しかし、市の中心部から車で10分ほどの沿岸地域の風景からは、巨大津波に飲み込まれた当時の様子が窺えた。コンクリートの堤防や松林は、津波から防御するには役立たないことが証明された。地震ではなく津波が、東北地方の沿岸地域全体に前例のない死者数と破壊をもたらした。
東北地方の沿岸に着くと、膨大な量の建築作業が必要であることは一目瞭然だった。かつて、住居や生産性の高い農場があった場所には、雑草が生い茂り、稲が不揃いに広がっている。壊れた車やボートが、そのままの状態で散乱し打ち上げられていた。
山の様に積み上げられた瓦礫が、沿岸部の景観に点在していた。叩きつぶされた自動車、折れた電柱、押しつぶされた家の残骸。小学校の駐車場は、津波が飲み込んで吐き出したバイクの墓場と化していた。
災害救援対策本部は、最悪の被害にあった宮城、福島、岩手の3県、並びに他7県の113市町村の各自治体に配置された。
3月11日を境に、被災者たちの人生は一変した。他の地域の人々は通常の生活を営んでおり、その格差は絶大だ。
被災者の生活は破壊されたままであり、多くの人たちは何年も仮設住宅に住むことを余儀なくされる。家族は散り散りとなり、生活の糧、財産、愛する人々を失ったトラウマを抱えている。最も厳しいことは、将来のメドが全くたたないことである。
仮住まいの生活
被災者の多くは高齢者であり、孤独感と先行きの不安が、特に堪え難い。東北地方の人口のおよそ3分の1が65歳以上の高齢者であり、全国平均の22.7%をはるかに上回る。
10月末、政府は5万1千537世帯の仮設住宅を用意した。多くの仮説住宅は、被災者の元の住居からは遠く、別の県に設置された所もある。慣れ親しんだ隣人とも離れて暮らすケースが多い。防寒設備が不十分で、医療施設へのアクセスはほとんどなく、 居住地区は狭苦しく、収入を得る機会はほとんどない。居住者からは苦情が相次いでいる。11月2日付の読売新聞英文ウェブ版)は、福島の3千軒の避難住宅は、避難者が必要とする基本的な設備に欠けるため、空き部屋となっていると伝えている。
宮城県石巻市にある開北地区の水押公園仮設住宅は、公園の駐車場の横に建てられた7世帯用の個別プレハブ住宅だ。仮設住宅用の敷地には100世帯分の設置がこれまでのルールだったが、今回、政府は適切な土地があれば狭くても設置したという。
施設内で生活する岩波武夫さん(74歳)は、一日のほとんどをベッドに座ってテレビを見ながらぼんやりと過ごしている。石巻湊(みなと)小学校救援センターで4カ月過ごした後、ここに移した。
「まだここには馴染めんな」タバコを取り出しながらこう語った。「避難所よりましな生活だね。あそこには皆いたから」 隣人たちのことは何も知らない。 「おはよう」以外は言葉を交わさない。かつての隣人たちは、別の大きめの仮設住宅に住んでいるという(仮設住宅は、抽選で割り当てられた)。
岩波さんが孤独に陥っていることは一目瞭然だった。しかし皮肉なことに、自分のスペースがあり、間取りも他の部屋より大きいので、人々は彼をうらやんでいるという。岩波さんは静か過ぎると不満をもらした。子供たちが建物の外で遊んでいても、二重窓が声を遮断していた。覗かれたくないので、カーテンは常に引いている。
(続く)
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