【大紀元日本8月27日】上方舞とは、いうまでもなく関東の舞踊に対して、大阪や京都の上方で発展した日本舞踊のことである。歌舞伎から舞台芸術として発展した関東の舞踊を「踊り」と呼び、昭和初期頃までは商談や社交の場であった座敷を舞台として発展した上方の舞踊を「舞」と呼ぶ。上方舞は地唄、つまり盲目の三味線演奏家検校(けんぎょう)などによって作られた上方の唄に合わせて舞うところから地唄舞ともよばれる。
上方舞が生まれたのは江戸時代で、当時武士のたしなみであった能から題材をとった本行物(ほんぎょうもの)、動物などをテーマにしたユーモラスな作物(さくもの)、恋心を詠んだ艶物(つやもの)などがあり、限られた空間で季節や風情・風俗をかいつまんで見せたエスプリの芸術であるといわれる。
さて、山村流であるが、古くは「大阪の舞は山村か、山村は大阪の舞か」と言われ、大阪の花街の振り付け・指導のみならず、舞の品の良さから商家の子女の習い事としても隆盛をみた。谷崎潤一郎の小説『細雪』で商家のこいさん(末娘)妙子が稽古している舞も山村流であった。
山村流の流祖は江戸時代後期に歌舞伎の振付師として、三代目中村歌右衛門とともに一世を風靡した山村友五郎である。友五郎は後に「吾斗(ごと)」(われ一人)と名を改めたというだけあって大阪の舞踊界を席巻していたという。友五郎の選んだ衣装をまとった芸妓の姿に「吾斗好み」と記された浮世絵も現存している。1806年に歌舞伎番付にはじめて振付師として名前が載った。その1806年を山村流の創流の年とした。
現在の山村流宗家は六世山村若さん、40代の若々しい青年家元である
山村若さん(撮影・Klaus Rinke)
。大阪上本町の稽古場へ山村さんを訪ね、山村流の今日、伝承のことなど話を聞いた。
現在、山村さんはお弟子さんの指導、一門の舞踊会、歌舞伎や文楽の振り付けなど家元としての仕事以外にも、宝塚歌劇団の舞踊教師、宝塚北高校の演劇講師、松竹主催の上方歌舞伎塾講師など多方面の活躍ぶりである。取材当日も初日間近の「上方歌舞伎会」稽古の合間を縫ってお弟子さんの指導、その間隙を縫っての取材であった。
山村さんが舞を始めたのは、「立てるようになったら、始めていたんでしょうね」と言うように、物心ついたときには稽古場で舞っていたという。師匠は祖母である四世山村若であった。山村流は一代、二代は男性が宗家であったが、三代目からは女性が宗家を継いでいる。
そのためか、山村流の舞は「やまと仮名の女文字」というように、女性らしい舞といわれる。「祖母の後は母が五世を継ぎ、女性の内面を詠う地唄舞は妹の方が向いている」「自分は何をすればよいのだろう」と子供の時から考えていたと山村さんは言う。
山村さんが18歳の時に、五世を継ぐはずの母が病死。それを受け、祖母である四世は「家元と言うのは大変なことですわ。まして、今のようなはげしい時代やと男の方がよいのではないかと思います」「男やったら、女房が助けてくれますよって」と語り、亡くなった娘を五世とし、その長男、山村さんを六世後継者に決めた。それでもなお、「山村流の宗家は女性が継ぐもの」と考えていた山村さんは、自分の立ち位置を定められず悩んだという。
そんな時、「初代さんが振付けた『歌右衛門狂乱』という曲がある」と、大叔父が薦めてくれた。恋人を失った若者が春の野に彷徨うという歌舞伎舞踊で、山村流の特徴である二枚扇を遣う難曲だ。「そこでやっと山村流の主流は地唄舞やけど、源流に歌舞伎舞踊があると思い至りました」「女舞にしても振付けたのは男(友五郎)です。男の目線で見た女性像を女性が伝えてきたのです」「ここでまた、男性の感性で元に戻してみるのもいいのでは、と思うようになりました」と山村さんは語る。次の世代には「上方の匂いを伝えたいですね」と、薄れゆく上方の情緒を惜しむ。
山村さんには、二人の息子さんがいる。父親の目指す舞踊をしっかりと受け継ぐべく、目下修行中であると聞く。また、精力的に活動の範囲を広げる家元を背後で支える郁子夫人の存在は内助の功の域をはるかに超えている。自身も6歳の頃から稽古を始めた山村流の名取である。お弟子さんの指導に加えて、山村流の機関紙発行、ホームページやブログの管理など一昔前にはなかった仕事もこなす。「女房が助けてくれます」と言った四世の判断は正しかったようだ。
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