【漢詩の楽しみ】江南逢李亀年(江南にて李亀年に逢う)

【大紀元日本4月14日】

岐王宅裏尋常見
崔九堂前幾度聞
正是江南好風景
落花時節又逢君

岐王(ぎおう)の宅裏(たくり)にて、尋常に見る。崔九(さいきゅう)の堂前にて、幾度(いくたび)か聞く。正(まさ)に是れ、江南の好風景。落花の時節、又(また)君に逢う。

詩に云う。昔、岐王さまのお屋敷で、いつもあなたを見ました。崔九さまの宴席でも、あなたの演奏を何度も聞きました。今はまさに、江南の良い風景の時節。花びら散るこの晩春に、こうしてまたあなたに逢えるとは。

杜甫(とほ、712~770)の最晩年の作。年号でいうと大暦5年(770)で、杜甫このとき59歳であった。長く老病の身であった杜甫は、ただ一人、流浪してこの潭州(湖南省)に着き、同年の暮れ、水に浮かんだ舟中で没する。

そんな杜甫にも若い頃はあった。時は、およそ40年前の開元年間にさかのぼる。玄宗時代の華やかだった当時、杜甫は、その詩文の才を買われ貴族のサロンに呼ばれていた。

岐王は、玄宗の弟の李範(りはん)であるから皇族の一員。崔九は、崔滌(さいてき)という貴族であった。楽師の李亀年は、そういった貴人の宴席へ常に招かれる花形スターだった。

玄宗皇帝の治世には、かつての太宗の御世がもどってきたかのように唐の国力が充実し、文化華やかな時代が続いた。世人はこれを「開元の治」と呼んで称賛した。

しかし晩年の玄宗は、傾城の美女・楊貴妃に心を奪われて政治を怠るようになり、やがて外戚である楊氏の横暴と節度使・安禄山の反乱を招いて、ついに長安を追われる身となる。

唐そのものは907年までかろうじて続くが、この安禄山の反乱を境として、没落の坂を下り始めたことは疑いない。

時が過ぎ、思いがけず再会した杜甫と李亀年の両人は、ともに老い朽ち果て、零落の身となっていた。散る花を肩に受けながら、手を取り合って泣いたであろうことは想像に難くない。 

 (聡)