涿鹿(たくろく)の戦い―黄帝が中原を支配し歴史を変えた一戦
炎帝神農氏が治めた後期に、中原にある諸侯は互いに征伐しあい、戦いは止まなかった。涿鹿の戦いは、黄帝が他の諸侯を破った後、涿鹿で蚩尤を亡ぼし、中原を支配し歴史を変えた一戦である。
黄帝の諸功績の中で、涿鹿の戦いは代表的なものの一つであり、上古の戦争状況や戦争観を知るものとして非常に貴重なものである。
涿鹿の戦いについて、『史記』のほか、『山海経』、『風俗通義佚文』、『列子』、『述異記』、『龍魚河図』などにもその戦況が記され、以下はその概況である。
軒轅ははじめ炎帝に仕えて戦ったが、帝との対立により阪泉の戦いで炎帝を打ち破った。続いて蚩尤と軒轅との対決になり、両軍は涿鹿の野で激しく戦った。結果、蚩尤は敗れて捕えられ、殺された。軒轅は諸侯に推戴されて帝となり、黄帝となった。
南宋の羅泌『史路』蚩尤伝によると、蚩尤は炎帝の末裔であり、姓を姜という。その注に引く『世本』は、蚩尤が戦斧、楯、弓矢など五種類の優れた武器を発明しており、戦神としてのイメージが強い。
その蚩尤は、獣の身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目に六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つ半人半獣のものだったという。蚩尤は超能力をもち、砂や石を食らい、勇敢で忍耐強く、戦いに長けていた。蚩尤には、また同様な姿をした兄弟が80人ほどいた。その他に、無数の魑魅魍魎(ちみもうりょう)を味方にして戦わせていた。
黄帝と涿鹿の野に戦った時に、蚩尤は、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝の軍隊を惑わしていたが、黄帝は指南車を発明して方位を示し、ついに蚩尤を捕え殺し、妖術を使う魑魅魍魎から成る蚩尤の軍を破ったのである。
諸侯の中で、蚩尤はひときわ強大であり、他の諸侯を攻撃したり人民を虐げたりする暴虐な怪獣と見なされ、背徳や邪悪の代表とされる存在でもある。したがって、蚩尤を破ったことは背徳や邪悪を取り除いた正義的行為であり、黄帝は正義・聖徳の君主と推戴されるのも当然な成り行きである。
黄帝にとって、この戦闘は敵を撃退し勝利した普通の戦闘ではなく、運命や歴史を変えた戦略的な一戦であり、中国の戦争史や文明史において多大な意義がある。すなわち、涿鹿の戦いを通じて、黄帝は四方の諸侯の乱を平らげ、中原を統一したうえ、帝に推戴されたことによって、後に中原文化の礎を築き上げることが可能になったのである。
(文・孫樹林)