その他の代表的な流派――思想文化の多彩多様化へ
法家とは、徳治を説く儒家と異なり、法的統治を政治の根幹におく一派。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がその代表である。彼らは厳格な法を作ってそれに基づいて国家を治めるべきと主張する。
かれらのいう法とは、刑罰が主体であり、君主が厳格な法をもって臣下や国民を統治し、富国強兵を実現させるための方策である。
秦に仕えた商鞅は、信賞必罰や連帯責任などを徹底させ、商鞅変法とよばれる国政改革を断行し、中央集権的な統治体制を整え、秦の勃興に貢献した。恵文王以降になっても、秦の歴代の君主は商鞅の法を残した。後に、始皇帝は同じ法家思想の李斯を宰相として登用し、法家思想による統制を実施して中国の統一を果たしたのも、商鞅の法があったためと言えよう。
韓非(前280年~233年)は、李斯とともに荀子に師事した。生まれつきどもりで十分に議論をつくすことはできなかったが、文章に長けた。韓非は、功利的な人間観、後王の思想、迷信排撃などの思想をもつが、それらは荀子から影響を受けたものと思われる。秦王は彼の才能をみとめ、韓の使者として秦に出向いた韓非を秦にとどめたが、まもなく同じ荀子の門下を出た李斯の讒言に遭い、獄中で自殺を強いられた。『韓非子』二十巻五十五篇があり、韓非の諸説を中心として編纂されたものである。
墨子(前470年?~前400年?)を祖とする学派。墨子は、名は翟、宋(河南省)の人、一説に魯の人。
墨子は、儒家の仁愛は不徹底な差別愛であると批判し、それを超える無差別平等の愛を「兼愛」として説いた。この兼愛思想は、国家間の戦争を否定することにも発展し、「非攻」の論を説いた。ただし、戦争に反対するが、防御・自衛の戦争はやむをえないものとして、施すべきと認め、かつ大国からの攻撃をうけた小国の味方について、その防御活動にもかかわり、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。
墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれ、実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約によって人民の救済と強国をめざす傾向が強く、全体としては儒家に対抗する主張が多い。
『墨子』五十八篇が墨家の思想を記す文献であり、墨家の代表的な著書である。本書は、墨翟の自著ではなく、後学たちの多様な思想的活動を記す集積である。
墨家は、戦国中期には儒家と対抗できる学派にまで発展したが、戦国後期になると三派に分裂し、秦漢帝国の出現にともなって著しく衰退に向かい、漢の武帝の代に至って完全に消えた。
軍略と政略を説く一派。春秋末期から戦国・漢初にかけて活躍し、戦争の形態・規模・目的や兵力の運用法について考察を加え、孫武、呉起、孫臏などが代表的人物としてあげられる。
孫武(前545?~前460年?)は、字は長卿、斉の国の人。武将・軍事思想家。兵法書『孫子』を著し、「百世兵家の師」、「東方兵家の鼻祖」とされている。
『孫子兵法』十三篇は、孫武の代表的な兵書であり、「戦わずして勝つ」という戦略思想を重視し、戦闘の防衛や短期決戦を主張し、戦略や戦術や情報戦などを多元的に生かす。『孫子兵法』は「百戦百勝は善の善なるに非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」と主張し、これは孫子兵法の最重要な思想と思われる。
司馬遷『史記』孫子・呉起列伝に、「世間で軍事を論ずる者は、すべて『孫子』十三篇について説く」とあるように、『孫子兵法』は史上で戦争の戦略・戦術に関する必読書とされた。数千年後の現在も、『孫子兵法』の思想はなお現代軍事家、戦略家たちに研究され、軍事のほか、商業や国際政治などさまざまな分野で活用されている。
孫臏(生没年不詳)は、孫武の末裔。孫臏はかつて龐涓といっしょに兵法を学んだ。学成ってのち、魏につかえた龐涓の悪計により、孫臏を呼び寄せて無実の罪に陥れ刑罰として、彼の両足を切断したりした。その後、斉の使者が魏へとやってきた際に密かにその使者と会い、一計を案じて魏を脱出するに成功した。『孫臏兵法』は孫臏の作とされるが、弟子たちが整理した説もある。孫武の『孫子兵法』と区別するために、通常、孫臏の兵書は『斉孫子』などと呼ばれている。
(文・孫樹林)