「影のドン」曽慶紅 江沢民の腹心として登り詰めた人(1)
曽慶紅は、中国の国家安全情報システムを牛耳る人物と認識されている。しかし実は、その情報システムや諜報活動を掌握するポストに就いたことはない。では、曽慶紅はどうやって国の情報スパイ活動を掌握し、「ドン」とまで形容されるようになったのだろうか。
曽慶紅 子どものころから特務政治に傾倒
曽慶紅の父親・曽山は、中国共産党の諜報システムをまとめる内務部長を務めた人物。曽慶紅は、情報特務系統の申し子とも言える。中国本土で発禁本に指定されている宗海仁著『第四代』(注1)には、曽山は内務部長の職にあった時、明朝、清朝の資料を読みふけり、官吏の道を深く理解すべく、苦学を重ねたと記されている。
この父親からの影響を色濃く受けたため、曽慶紅もまた、明代、清代の宮廷秘史に興味を持っていた。なかでも、敵対人物にいかにダメージを与えるか、権力闘争の中で自分の立場をいかに守るかについて学んでいた。
明朝の「錦衣衛」と「東廠」は、当時の朝廷の諜報機関としてその存在が広く知られていた。清朝になると、隠密に事を運ぶようになり、組織の存在と活動が公には分かりづらくなっていた。
子どものころから宮廷の権力闘争秘史を愛読してきた曽慶紅。「特務のドン」となることが宿命づけられていたようだ。
江沢民の腹心となる
特務には、忠誠を誓った取りまとめのボスが存在するが、そのボスもまた、誰かの下で活動している。毛沢東には康生という腹心がいたが、曽慶紅は江沢民の腹心となった。その地位に、どのようにして登り詰めたのか。
1984年、石油部外事局の副局長を務めていた曽慶紅は、父・曽山のかつての部下である上海市委書記の陳国棟と、上海市長・汪涵道の助力で、上海組織部(人事部)副部長に転職した。わずか数カ月後、曽慶紅は部長に昇格した。
それから一年後、陳、汪の両名は引退し、代わりに芮杏文と江沢民が、それぞれ上海市委書記と上海市長に就任した。このころ上海の人事組織系統に対し、曽慶紅は若返りを図るという大胆な改革を行った。この政治手腕が芮杏文に認められ、芮杏文は曽慶紅を市委副書記に昇進させた。
芮杏文と江沢民は、犬猿の仲だった。87年の終わりに、上海出身の江沢民は「よそ者」である芮杏文を上海から追い出し、トップの上海市委書記の座に付いた。その時の市委副書記が、呉邦国、黄菊、そして曽慶紅だった。江沢民のお気に入りは、生粋の上海人の黄菊。政敵の芮杏文に目をかけられていた曽慶紅は、江沢民とはあまり親しくなかった。だが、江沢民はその後、政治の中枢中南海に赴く時に、子飼いの黄菊ではなく、曽慶紅を伴った。
なぜか。鄧小平に突然抜擢された江沢民は、大きな不安を抱えながら北京入りした。失脚した胡耀邦、趙紫陽と同じような結末になることを恐れていた。江沢民は、胡耀邦や趙紫陽と比べて資格も実力も全くおよばず、自身もそれを自覚していたようだ。
北京で権威のない江沢民 曽慶紅の人脈を利用
中央入りしても実績を残せなければ、もっと惨めな結末になりかねない。江沢民は黄菊に目をかけてはいたものの、黄菊は北京官界では、何の力にもならない。この時、江沢民の目に留まったが曽慶紅だった。
上海で曽慶紅が振るった政治手腕もさることながら、江沢民にとって重要だったのは、曽慶紅が太子党(注2)で、官界に大きな人脈を持っていたことだった。これは江沢民には持ちえないものだった。
曽慶紅の人脈は実に幅広い。父親の曽山は、中共東南局、華中局組織部長を務めたのち、紡績部長、商業部長、交通部長、内務部長を歴任し、曽慶紅に強力な人脈を残した。母親の鄧六金は、かつて中国共産党華東局機関保育院設立の準備責任者と院長を務めており、ここで政府高官の子弟約1000人が鄧六金から世話を受け巣立っていった。「太子党のゆりかご」との異名を取っていたこの保育院を通じて、曽は母親からも、太子党という人脈の宝を受け継いでいた。
毛沢東の腹心だった康生は、自身の人脈ではなく、毛沢東の威信を利用して特務のドンに君臨した。中国共産党は1935年ごろ、上海で路頭に迷っていた毛沢東の息子2人を探し出した。彼らをフランス経由でモスクワに送り、上海発仏マルセイユ行きの船に乗せた。知らせを受けた康生は、ソ連からマルセイユ港までわざわざ駆けつけ、毛沢東の息子をモスクワに送り届けた。
康生は、毛沢東の家族に対するこうした細心の気配りによって、信頼を勝ち取った。いっぽう、その後の康生は、権力を笠に着て勝手な振る舞いを重ねていくことになる。
江沢民をたてて のし上がる曽慶紅
曽慶紅の場合はこれと全く異なる。曽の主君の江沢民は、権威のかけらも持ち合わせていなかった。つまり、曽が江の庇護を必要としていたというよりは、江が曽の持つ人脈を必要としていた。江沢民と組むことで、曽慶紅もまたトントン拍子に出世するチャンスをつかんだ。
江沢民は後ろ盾となるべき人物も団体も持っていなかったが、多くの人脈に恵まれている曽慶紅がその手足となることで、自身の足場を固め、権力を握ることができた。曽慶紅にしてみれば、江沢民の権力を確立することは、自身の政治資本を蓄積することでもあった。
(つづく)
(翻訳編集・島津彰浩)