麟徳二年(665年)の冬十月、唐高宗は泰山へ封禅の儀を行いに行く途中、寿張県(中国河南省濮陽市台前県)を通り掛かりました。張公藝という長寿の老人がその子孫と九代にわたって仲良く同居していることを聞いた高宗は、張公藝を訪ねました。高宗は張公藝に「なぜ、一族がこのように睦まじく九代も同居できるのか」と聞きました。
張公藝は最初何も言わずに、筆と紙を出し、紙に「忍」の字を百余り書きました。そして、張公藝は唐高宗に「父子の間に忍が無ければ、慈悲と孝行の心が失われる。兄弟の間に忍が無ければ、よその人に欺かれる。兄弟の妻の間に忍が無ければ、兄弟たちがばらばらになるだろう。姑と嫁の間に忍が無ければ、親孝行をする心が失われるだろう。……」と説明しました。つまり、お互いに責めるのではなく、忍ぶことで家族が仲良くなり、幸せに暮らせるのだということです。
これを聞いて非常に感動した唐高宗はその場で、張公藝に酔郷侯という爵位を与え、張公藝の息子である張希達を司儀大夫に抜擢しました。同時に、高宗は百忍義門の建設を命じ、高宗は自ら「百忍義門」という四文字を書き上げました。張公藝が亡くなってから、子孫はこの「忍」と「孝」を謳うことを主張し、平和で幸せな家庭を築き上げた賢明な先祖を記念する為に、彼を祭る「百忍堂」を建てました。
現在、中国本土のみならず、海外でも見られるすべての張氏祠堂(張氏一族の先祖を祭る神社)が「百忍堂」と呼ばれているのはこの物語から由来しています。また、張氏の子孫は代々、張公藝の精神を受け継ぐよう、「忍」を家訓としています。
(編集・望月 凛)
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