一時の我慢で波が静まり、一歩引き下がれば世界が広々と開ける
「小さな不寛容は大きな混乱をもたらす」「忍は高く、和は尊い」「忍耐して許せば災難も滅される」ということわざがあり、また、道家の葛洪は「金は硬いために折れるが、水は柔らかいため損なわれない」と言いました。
「大道が行われし治世」「陰と陽の原則」「災いと幸せは交互にやってくる」など、これらはすべて同じような理屈を述べています。多くの場合、しばらく我慢すれば風が穏やかになり、波が静まり、一歩引き下がれば世界が広々と開けるのです。争いの中で極端なことをしなければ、急に転機が来て人生が開けることがよくあります。一時の我慢で荒波が静けさを取り戻し、 一歩退けば、海も空もより広く見えます。
忍耐と臆病
すべてを我慢するのは臆病すぎるのではないかと思う人もいるかもしれません。決断の我慢、我慢とは何もしないことでしょうか?そうではありません。世の中には、得があれば必ず損があります。忍耐とは、行動に具現化された態度であり選択です。選択に他なりません。
「比類のないほどすぐれた人物」である韓信は陳倉を出て、三秦を定め、魏、代、趙、燕、斉を滅ぼしました。韓信は四方八方から待ち伏せし、領主を垓下(安徽省の古戦場)に閉じ込め、楚軍を全滅させ、そして劉邦が一度も敗北することなく天下を統一するのを助けました。
そんな大将軍が「股くぐりの屈辱」を喜んで受け、ごろつきと争いもしないのは臆病だからではありません。得るものがあれば失うものがあり、失うものがなければ、得るものもありません。悪人は利益を求め、君子は義を求め、賢者は天下の大道を修めます。韓信は大きな忍の心を持っていたからこそ、このような偉業を成し遂げることができたのです。
耐えがたい事と大善大忍
孔子は、「周王陛下の特権である八佾(はちいつ)の舞を、臣下が自邸で舞わせた。この僭越な行為を忍ぶことができれば、他に忍べないことはないだろう」と言いました。大義を前にして、耐えられない時もありますが、しかしその時の行動は忍耐の意味を体現しているのです。
神韻公演の演目に、しばしば法輪功学習者が迫害を受けているシーンがありますが、殺人や不正に直面しても、大善大忍の心で真実を説き、人々を救う物語は、何が大善大忍であるかを十分に示しています。
2015年の神韻公演では、「善の力」と呼ばれる短い舞踊劇がありました。「人が何かの考えを持ったら、天地はそれを察知することになります」。中共のプロパガンダ、嘘の宣伝に騙された警察すら、法輪功学習者の優しさに感銘を受けて、真相を知り、自分の行動を正したシーンがあります。
2017年の神韻公演の「善と悪」では、中国共産党による法輪功への迫害によって両親を亡くした少女の物語がありました。彼女は10年以上経った後、「真・善・忍」という信念から、勇気を持って両親の足跡を追い、中共の迫害に勇敢に立ち向かって真実を伝えました。
これらの舞踊劇はすべて実話に基づいており、中には神韻の出演者の個人的な体験も含まれています。「目を開けたら、周りは警備員や公安だらけで、私たちに向かって飛びかかってきた。パトカーがあちこちに止められていた。瞬く間に私だけが一人ぽつんと残され、母と数人の叔母は狂ったような警官にパトカーに押し込まれて走り去った」。これは、当時4歳に満たない神韻琵琶奏者のリャン・ユー(梁玉)さんの記憶です。
2015年、既に琵琶の上級奏者だったリャン・ユーさんは中国を離れ、神韻管弦楽団に加入し、飛天大学の音楽学科で勉強を続けました。現在、彼女はリハーサルや公演を見ているとき、中国に思いを馳せ、法輪功学習者の受けた迫害を思い出すことがあるといいます。彼女は中国での経験を振り返りながら、こう語ります。「舞台上で神仏のメロディーが奏でられるたびに、何とも言えない気持ちになり、善と悪、希望と苦しみ、失と得、生と死…その瞬間、様々な出来ことが混じりあって私は言葉を失うが、それでも自分が選んだすべてが正しく、価値があると感じる」
五千年の歴史の流れの中で、あなたが目にするすべての物語は、知恵と文明の輝かしい光です。神韻は伝統文化に基づいており、最も完成された舞踊体系として、神聖な文化の本質を生き生きと表現しています。皆さん、神韻を観る機会を逃さないでください。多くの観客が感銘を受けています。
(完)
(翻訳・郡山雨来)
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