胡馬大宛名
鋒稜痩骨成
竹批雙耳峻
風入四蹄輕
所向無空濶
眞堪託死生
驍騰有如此
萬里可横行
胡馬(こば)大宛(たいえん)の名。鋒稜(ほうりょう)痩骨(そうこつ)成る。竹を批(そ)ぎて双耳(そうじ)峻(するど)く、風入りて四蹄(してい)軽(かろ)し。向かう所、空濶(くうかつ)なく、真に死生を託するに堪(た)えん。驍騰(ぎょうとう)此の如く有らば、万里(ばんり)横行(おうこう)すべし。
詩に云う。この西域産の馬は、大宛の名に恥じぬ名馬である。その馬体は鉾のように鋭く、ひきしまっている。竹をそいだように切れ立った両耳に、風をはらんで走る四つの蹄のなんと軽やかなことか。この馬は、向かうところ空間がないかのように速く走る。これこそ武人が生死を託することのできる名馬といえよう。馬が勇ましく強いことは以上の通りであるから、この馬に乗れば、万里の彼方まで思いのままに走って行けよう。
杜甫(712~770)まだ若い30歳ごろの作品。房兵曹の房は姓、兵曹は軍兵をあつかう役名をさす。どこの誰であるか分からないが、杜甫と親しい間柄だったらしく、その人物が所有していた馬を絶賛する詩になっている。
胡とは漢土からみた西域をさす。ただし、それは地域を示す文字というより、文化的には圧倒的上位である(と自覚する)漢民族が、西国わたりの駿馬や珍しい物品、異国情緒の音楽から胡旋舞を踊る異形の美女まで、漢土にないものを希求する感情までをも含む、複層的な概念となっている。
冒頭、この馬は2千キロを隔てた大宛国から引いてきた名馬だ、という。それだけで褒めすぎであることは明らかだが、この辺りのところは、漢詩の表現の綾として許容してよい。おそらくは大宛の馬を遠い血統にもつ中国産の良馬であろう。
さらにその馬のすばらしさは、騎乗する武人が、自身の生死を託すことができるほどだという。この馬に乗って武功を立てることを暗に示すなど、房兵曹へのお世辞は並ならぬものがある。
それにしても、若いころの杜甫にこんな躍動感のある詩があったかと思う。晩年の杜甫は、病苦と貧困にあえいで放浪するなかで、大量の涙を流しながら詩を詠んだ。そうした詩こそ杜甫の真骨頂ではあるが、考えてみれば、誰しも若く元気だった時代があってこそ老いの悲しみがある。杜甫の晩年の涙も、その例外ではなかったと言えよう。
(聡)
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