上司と部下の関係の中で、特に部下が上司とどう付き合っていけばいいのか、悩むこともあるのではないでしょうか。
ここでは、三国志の時代に「悪来」と呼ばれた典韋から見る、上司との付き合い方を考えてみたいと思います。
1-1.典韋とは
典韋は豪傑として知られ、当初は張邈の配下となります。後に、虎を追いかけていた所を夏侯惇に見いだされ、曹操配下となりました。
その曹操に、古の殷の紂王に仕えた官僚で、あだ名が悪来である、嬴来(えいらい)の武勇になぞらえて、典韋は悪来と呼ばれるようになりました。
典韋は、曹操傘下で反逆を起こした張繡と闘いの最中に深手を負い、目を開けながら絶命し、曹操は嘆き悲しんだとされています。
1-2.典韋と曹操の関係
典韋の地位は、都尉が最高位で、同じ時期に仕えている許褚は張繍征伐の時点で、校尉となっています。若干、許褚のほうが立場は上です。
(もちろん、典韋の年齢や仕えた期間などを考慮すれば、一概に言えることではありませんが)
しかし、張繡との会談の際、曹操の後ろを守ったのは紛れもない典韋です。
許褚は典韋の死後、曹操が天寿を全うするまで、守った重臣であることから、許褚と同等か、それ以上の武勇をもっていたと考えられます。
また、この張繡と曹操が会談した際、典韋は曹操の背後で斧を持って控えていたといわれており、信頼されていたことが伺えます。
2-1.典韋と上司との付き合いかた
三国志演義では、許褚は元々、何儀という黄巾賊の大将のもとに仕えており、典韋と許褚の一騎打ちの末、許褚が捕らえられ、曹操配下となりました。
このように、典韋は戦功をたて、また曹操の側近として守る立場にもあることから、彼の業務範囲は広かったとも言え、責任は重かったと想像できます。
この典韋も元々は、張邈の配下、趙寵(ちょうちょう)に仕えていました。夏侯惇に見いだされ、曹操配下となったことは先に書いたとおりです。
しかし、この頃の記述が殆どないことから、彼らに仕えた時期は短くまた、重用もされなかったのかもしれません。
曹操に仕えた以後は、自分の寝床にも帰らず、曹操を守るために近くで寝る、というように、全てを仕事に捧げています。
典韋はこの「転職」によって、良い働き場所を見つけ、また曹操もそれに答えるように仕事を与えたことが、お互いの信頼関係につながったのでしょう。
上司部下の付き合い方として、与えられた職責を十分に守ること、期待に答えることが非常に重要と言えるのでしょう。
3.まとめ
ここでは典韋と張邈や曹操など、仕えてきた状況を整理し、部下から見た2人の上司と、その後の関係について見てきました。
自分が上司という立場になったとき、どのように振る舞うべきか、改めて考えてみると良いかもしれません。
(大紀元日本ウェブ編集部)
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