単騎の趙雲
時は3世紀、中国の強大な漢王朝は崩壊しました。この混乱期には、英雄や勇敢な人物が現れました。劉備の右腕として知られる趙雲もその一人です。
横暴な独裁者の息の根を止めた美女の策略
ほぼ2000年前の漢王朝の最末期に、董卓(とうたく)という横暴な武将が宮廷の実権を握っていました。若い皇帝の権力を奪い、大臣を不当に責め、残酷に端から処刑していきました。
中国四大名著の一つ:三国志演義
「昔から、天下の大勢は長く分かれていれば必ず一つになり、長く一つであれば必ず分かれるという」―『三国志演義』冒頭
諸葛孔明――草船で矢を拝借【千古英雄伝】
最高の贈り物は、友から来るのでしょうか? それとも敵から来るのでしょうか? 3日で10万本の矢が必要となった天才軍師は、最も便宜的な解決策を見出しました。敵の弓や矢筒から放たれた矢を利用しようということです。
初めての漢民族以外の王朝――元
1271年、モンゴルのフビライ・ハンが元を建て、初めての漢民族以外の皇帝となりました。その後、数十年にわたり、中国はかつてない規模の帝国となり、元は文化の多様性と国際貿易の栄えた時代となりました。
農民が切り開いた時代――明
明の最初の皇帝・太祖の生い立ちは、朝廷生活とはほど遠く、彼は朱元璋と名付けられた農民の子供でした。彼は最初、僧侶の道を歩みましたが、モンゴル主導の元が朝廷内の闘争で弱体化する中で反乱軍に参加し、まもなく右に出るもののいない軍事家として才気を発揮することとなりました。
諸葛亮の不器量な妻
諸葛亮が結婚したのは25歳の時でした。古代、特に戦争で世の中が乱れていた頃は、15-6歳、場合によっては13-4歳で結婚するのが普通であり、彼のように25歳になってもまだ結婚していないのは珍しかったのです。また、彼は、条件からすれば、名家にとって理想的な婿であったにもかかわらず、何と黄碩(こうせき、『三国志演義』では黄月英、『三国志』では単に黄夫人)という不器量な女と結婚しました。
友人間の義【雅(みやび)を語る】
前回は、精神的に支え合ってくれる友人を大切にすべきことを話しました。これ以外に、友人間で大事にしなければならないのは「義(義理)」です。
三国時代はまさに「義」とは何かを後世に伝えています。劉備、曹操、諸葛亮、張飛などの武将のことを多くの人が知っています。中でも忠義を貫いた武将がいます。それが関羽です。では、関羽は何をしたのでしょうか。
諸葛孔明――預言者か(上)【千古英雄伝】
諸葛亮(紀元181年〜234年)、字(あざな:本名以外につける別名)は孔明、劉備の名軍師で劉備を補佐して漢の復興を謀りました。劉備は「三顧の礼」をもって、諸葛孔明に「天下三分の計」を教わり、魏、呉、蜀の鼎立(ていりつ)時代へ導きます。『三国志』全般で「三」という数字が注目されていますが、「三」は中国文化の本質に根ざしたものです。
火龍と関羽
武漢は火龍の地とされ、百年ごとに百万軒の家が火災になると言われています。ある年、玉皇大帝(中国道教における事実上の最高神)の命令を受けて武漢へやってきた火龍は心の優しい龍で、中々火をつけられませんでした。
第7話:3つの重要な要素【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】
三才とは、天、地、人のことを指しており、この宇宙を構成する基本的な要素です。三光とは、太陽、月、星を指し、天上にて光を発する三つの物体のことで、地球上の主な光源でもあります。
【三国志を解釈する】(12)乱世の難題 答えが徳に潜む
人々が怒りの声を上げようと上げまいと、社会全体は意識的に正義を実践しており、董卓の行動は当然ながら非正義とされた。礼儀や法律は状況に応じて変わることがあるが、人間としての道徳感は変わることはない。古代人は明白に生きていた
神人感応 魏、呉、蜀の三国の衰退を予言した凶兆
美しい鳳凰の飛来は吉兆と見られているが、雑羽の鳥や黒山のようなカラスが現れるなら、史書五行志の中では鳥や虫の罪の一つと見られている。中華文化は神・人を一とした中心思想を伝承している。
【三国志を解釈する】(11)廃帝を叫ぶ董卓を盧植が論破
宦官に拉致された漢の少帝と陳留王を、官吏や将軍が見つけ出した後、西涼の刺史である董卓は、混乱に乗じて、皇帝を守るという名目で、大軍を率いて少帝のもとへ直行しました
【三国志を解釈する】(10)童謡が予言していた皇帝の運命と董卓の死
「帝は帝にならず、王は王にならず、千乗万騎は北邙山を追い駆ける」当時、子供たちに歌われたこの童謡は漢霊帝の死後、最後の二人の皇帝の運命を予言していた。作者は天意の存在を暗示している
「十常侍」の専横 張飛 腐敗役人を鞭打ち
張飛が怒りで督郵に鞭打つ話は、『三国志演義』の第二回に出てくる有名な話です。この話は、張飛の正直さと正義感、民衆のために悪を排除する勇気を示すためだけではなく、漢霊帝時期に、「十常侍」と呼ばれる宦官たちが宮廷を掌握して好き勝手に行動し、皇帝を欺き、忠誠心の強い官吏や将軍を陥れたり排除したりする現象を詳しく描写している典型的な場面です。しかし、その目的は、暗い現実を暴くことではなく、後漢がやがて分裂する危機に直面している様子、及び英雄たちが続々と現れることを予感させることにあります。
【三国志を解釈する】(7)劉備 誓いを破り、大義を失い、白帝城に死す
劉備と張飛との出会いに続いて、ついに関羽の登場です。張飛の声は雷のごとく、勢いは奔馬のごとくというものでしたが、関羽の相貌は神将のごとく、一身に神威を帯びており、一見しただけで人々に畏敬の念を覚えさせるものでした。関羽は身の丈9尺(後漢の尺度では約208cm)、髭の長さは2尺(同じく約46cm)、熟した棗(ナツメ)の様な紅顔、唇は朱を塗ったよう、切れ長の目、太く逞しい眉を持ち、その風貌は堂々たるもので、威風は凛々たるものでした。
【三国志を解釈する】(6)張飛と劉備 剛と柔の組み合わせ
初めて読者の前に姿を現し、劉備と出会った張飛が、『三国志演義』ではこのように描写されています。
【三国志を解釈する】(5)劉備は腐れ儒者ではなかったのか?
前章では、黄巾軍が反乱を起こし、張角軍が幽州(注1)の国境に攻め込んできたので、状況は危機的であったということを紹介しました。総督である劉焉は、全県に義勇兵を徴集する召集令状を発行し、その召集令状が涿県(注2)に届いたということです。そこで、劉備が正式に登場することになり、「桃園結義」の物語が始まりました。
【三国志を解釈する】(4)黄巾の乱 道術を悪用した張角が残したもの
"霊帝の末期、黄巾賊が蜂起すると、各州、各郡はそれぞれの兵を動員し、劉備は部下を率いて鄒靖に赴き、実力で黄巾賊と戦い、安西の尉官を解任させました。これは歴史書『三国志』の中で、劉備が賊を倒して安西府の尉官になったことを記した原文です。これは、黄巾軍の真実は国賊と判断されており、中国の近代史教科書で歪曲された農民の蜂起ではなかったことを示しています。「州・郡の志願兵」こそ歴史書で認識されている義勇兵であり、各州や郡の政府が組織したボランティアで、官軍とともに黄巾賊と戦ったものです。
【三国志を解釈する】(2)三国志が現代に伝えた遺産 「義」とは?
「三国志演義」は「義」をテーマとしています。この長い物語の巻頭は、劉備、関羽、張飛が張飛の屋敷の裏にあった桃園で血の繋がらない義兄弟として誓いを結んだ「桃園結義」(桃園の誓い)です。 では、この「義」とは何でしょうか。
【三国志を解釈する】(1)素朴な疑問 「三国志演義」と「三国志」の違いは何か?
諸葛亮、劉備、関羽、張飛、曹操の名を知らないものはいません。これらの英雄が活躍する三国志の何百もの物語のほとんどは『三国志演義』で語られていますが、これらの物語はすべて「三国志」を題材にしています。では「三国志演義」と「三国志」、この2つの作品はどう違うのでしょうか。
曹操――部下の裏切りを許す【千古英雄伝】
三国志に登場する天下人・曹操(そうそう)。当時の歴史をドラマチックに描いた「三国志演義」の影響から、冷酷で計算高い人物とされていますが、実は部下からの信頼が厚く、適材適所で人を重用した名将でした。
曹操も捕まえられない人
曹操は、「一匹だけでは足りない、もう一匹取れるか?」と聞きました。左慈は釣り餌と釣り針を変え、もう一匹の鱸を釣りました。いずれも元気よくぴんぴん跳びはねていました。曹操は鱸で料理をさせ来客に味わわせました。
孔明から学ぶ!無理難題な取引先との調整方法
諸葛亮孔明は赤壁の戦いのときに、周瑜から2つの無理難題を突きつけられました。
一つは10万本の矢を集めること、もう一つは東南の風を吹かせることです。これをどのようにして対処したのでしょうか。
現代でも、取引先から無理難題を言い渡されたとき、対処する方法はあるのでしょうか。早速、これらの例を見ていきましょう。
能ある鷹は爪隠す 陸遜の演技能力から学ぶビジネス能力
陸遜は三国鼎立の時代を迎え、赤壁以後の、呉と蜀が争う真っ只中で、荊州とよばれる地域を奪取しました。
ここでは陸遜の類まれな才能、演技能力からビジネスで役立つ部分を見てみましょう。