【三国志を解釈する】(15)三国志演義が董卓の物語から始まる意味

三国志演義』においては、王位にありながら実権のない献帝の長い治世の中、定まった統治者と定まらない統治者という二つの状況を設定して、義の意味合いを示すことを目的としています。そのため、作者が、残忍な董卓を利用して、献帝を王位に押し上げるのは必然的なことでしょう。邪悪な人間は、無知と傲慢さゆえに、歴史の流れを作ったり、変えたりする場合があるからです。
 

董卓の悪行で演義の話を始める

「歴史は天によって定められる、文化は神によって伝えられる」というのは、小説『三国志演義』を創作する視点です。つまり、五千年の歴史を持つ中国を舞台に、各王朝の歴史が演じられ、神は人間に様々な文化を残すのです。このような観点から、作者は『三国志演義』という小説を通して、中国の文化的本質を解釈し、人々に義の真意を伝えるのです。

これこそが中国の歴史と文化を解釈する時に取るべき姿勢だと思われます。このような観点から、歴史上の人々や彼らが残した文化を読み解くことができるのです。そうして初めて、『三国志演義』に登場する人物や彼らをめぐる物語の目的や真意を読み取ることができます。

董卓は大臣らを拉致し、盧植を追い払って、呂布を買収して主人を義守していた丁原を殺害し、漢少帝の守備をすべて殺して、少帝を廃したのです。残忍な手段を尽くした董卓は、ほとんど苦労せずに、献帝の即位を成功させました。その成功によって、献帝の時代が正式に始まり、義に関する物語の幕が開かれたのです。

一見すると、献帝は様々な屈辱を受けて、董卓の権威に屈するしかないのですが、実は傲慢な董卓はどんな暴虐を働いても、天意に按排されて献帝の上位を実現させただけです。その役割を果たした董卓は、もう存在価値がなくなり、歴史の舞台から退場させられ、自分の悪行に代償を払い、悪しき報いを受けて殺されました。

したがって、古人がよく言ったように、悪行には報いがあり、定められた歴史的な目的が達成されれば、報いが始まるのです。我々はこの古き教訓を決して忘れてはなりません。今流行りのテレビドラマで放送されているように、悪人の行動を模範として扱い、陰謀や悪知恵を正確な知恵だと思い込むことは避けなければなりません。そうでなければ、自分の人生を台無しにしてしまうのです。
 

董卓の暴虐 皇帝への侮辱行為や謀殺

董卓は、金珠と赤兎馬を使って呂布を買収し、呂布と丁原の義理の親子関係を破壊してから、呂布を利用して最強の敵である丁原を殺しました。その後、董卓は袁紹を追い出した後、強引に少帝を退位させ、母の何皇后と妾と共に幽閉し、自由を奪いました。それ以来、権勢を振るってきた董卓は、9歳の献帝である劉協に屈辱を味わわせ、盗賊のような残忍な暴行を加えたのです。

董卓は、歴史において君主をいじめ、君主の代わりに諸侯に命令を下した強権的な官吏の第一人者だと言えます。献帝は、完全に董卓に支配されて、単なる操り人形になってしまったのです。

董卓の名は相国ですが、彼は皇帝に謁見する際に名を名乗らず、極めて無礼な態度で、刀を持ちながら宮中に出入りして、礼儀のかけらもなく、大臣のあるべき姿を無くし、政権を盗んだ泥棒と見られています。退位を強いられた少帝は、衣食に事欠く惨めさゆえに、その憎しみを詩に詠んだといい、後に董卓に仕えた李儒によって毒殺されました。また、何太后と妾は生きたまま館から引きずり出され、首を吊られて、少帝一家は、とても惨めな死を遂げました。

董卓の暴虐はこれだけではありません。小説によると、董卓は毎晩宮中に入り、宮中の女官を犯し、国王の寝床で寝ているというのです。2月に董卓は、軍を率いて都を出て、陽成に到着した時、村人たちが土の神を拝む祭りを行うところでした。董卓は、兵士に命じて村人を取り囲み、皆殺しにしたうえで、女性の持ち物を略奪し、荷車に積んで、殺された村人の首を千人余り荷車の下に吊るし、盗賊に勝ったと宣言しながら都に帰りました。その後、城門の下で村人の首をすべて焼いて、奪った女性の持ち物を兵に配りました。

この物語は、まさに権力を握った時の董卓の横暴を描写しています。権力を握った悪者は、人の命を顧みず、いつか必ず国王や大臣、国民など、世の中に害を加えるのです。

そんなに傲慢な董卓は、なぜ自ら皇位に就かなかったのか、という疑問が生じるかもしれません。要は、董卓には国を管理し、国民を服従させ、人々に認められる素質や能力がないからです。

董卓は国を盗んだ泥棒だと思われていたので、漢の各州や地方の諸侯に漢王朝を捨てさせて、自分に服従させることは不可能です。しかし、漢の正統な地を継いだ皇帝が在位している限り、実権を握っていないことが知られていても、各州や地方の諸侯は皇帝の名で出された勅令には背くことはなく、服従するしかありません。そうでないと謀反に等しいです。その時、董卓は謀反を理由に諸侯を討伐することができます。同時に他の諸侯には戒めることもできます。こうして、董卓はすべての諸侯を自分の命令に従わせることができたのです。

もし董卓自身が王位につけば、諸侯は正義のもとに、義理堅く団結して董卓を叩き潰すことができるし、反逆にもならないのです。
だから、董卓は最初、自分の権力欲をうまく隠しましたが、権力を握った後は邪悪な本性が暴露されて、少帝を殺すなどの暴虐の限りを尽くしました。

つまり、董卓が思う存分に暴力を振るうことができたのは、天理がなく、天罰が来ないわけではなくて、むしろ天意の按排だと思われます。傲慢な董卓を一時的に成功させ、彼が人々から骨の髄まで憎まれて、悪事をやり尽くした後に、死を迎えさせたのです。このようにして、董卓の罪は皆に知られるようになり、世間では、彼を嫌悪し、見捨てるようになり、正義と忠実の旗を掲げて漢の国王を守る情勢に変わるのです。

その後、漢王朝が分裂し、次第に、実権を持たない国王がいない状況となり、各諸侯が中原で奪い合い、それぞれ自分の主のために忠義を示すように動きます。献帝を補佐する大臣たちが変わり続ける中で、忠義の心を持つ大臣たちは、董卓を殺すために、それぞれ知恵を絞り、独自の方法を取り始めました。それ以来、『三国志演義』において、「義」の歴史が本格的に始まったのです。

(つづく)

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。