三国志を解釈する(13)

【三国志を解釈する】(13)曹操は天 劉備は人 孫権は地 三国志演義が伝えた三才の文化観

董卓が廃帝を強行したことは、「帝は帝ではなく、王は王ではない」という予言が完全に当たったことを意味します。では、歴史が天命によって定められているのであれば、漢の末期に三国が共存したのはなぜでしょうか。

四国や五国、六国ではなかったのはなぜでしょうか。これまでの王朝と違って、暴君に支配されてからすぐに滅びるに至らなかったのはなぜでしょうか。若い皇帝を挟んで、それを持って諸侯に命じたりする現象が何度も出現したのはなぜでしょうか。

三国で三才を伝える

作者は神伝文化という視点で『三国志演義』を書いているので、当然、すべてが天命に定められることを確信し、後世に神伝文化を残すという目的を持っているはずです。三つの国の鼎立したことを用いて、「天地人」という三才の概念を人々に広く知らしめるためです。

皇帝であっても将軍であっても賢者であっても、身分を問わず、いつも天人統一の宇宙観を抱き、畏敬の念と感謝の気持ちを持っています。こうして人は好き勝手なことができず、無謀なことをしなくなります。

「天地人」という三才の概念は、『三国志演義』において諸葛亮の話によって表されました。諸葛亮が庵にいた時、天下に三つの勢力が鼎立するという形勢を劉備に説きました。

「魏・呉・蜀」という三つの国には、それぞれ優勢を持っています。曹操は「天の時」を、劉備は「人の和」を、そして孫権は「地の利」を持っているということです。つまり、諸葛亮は「天地人」という三才の概念に基づいて、三国それぞれの持つ優勢を分けながら説明しています。表面的にはそれぞれが持つ戦法上の優位性を語っていますが、実際には三つの要素が揃わなければならないという文化的見解を伝えています。

詳しく言えば、この三つの国がそれぞれ異なる有力な要素を持つことで、一時的に共存と鼎立の形勢をなしているとはいえ、最終的には長続きせず、滅びる運命から逃れないでしょう。「天、地、人」の三つの要素が揃って初めて中国の統一が完成することが可能です。結局、三つの要素が揃わない三国はいずれも滅び、国を統一することができませんでした。

三国の鼎立する局面の形成は、「天・地・人」のうち、どれか一つが欠けても偉業を成し遂げることはできないということを人々に伝えたのです。著者は、諸葛亮の偉大な才能と知恵を通して、戦時下の人々の偉業を成し遂げる大きな志と欲求に合わせて、鮮やかな物語を用いて、この「天地人」という三才の文化観を語りました。

このような壮大な文化観は、「三国志」の歴史とともに人々の心に深く刻み込まれているのです。宋代になって、「天地人」という三才の概念は、『三字経』に書かれて、学童教育の教科書の正式な内容となりました。

劉備と曹操 闊達な天命観を持つ

中国の五千年の伝統では、天を敬い、神を信じる文化があり、人々は常に天志に従い、天命を知り、道義を守り、そのような心境で人事を尽くして、成敗を天命に委ねられるのです。正反対の性格を持つ劉備と曹操は、『三国志演義』において、歴史と同等でない部分が多くあるものの、闊達な天命観を持つ英雄として描かれています。

例えば、赤壁の戦いで曹操は敗北して百万の兵力を失い、逃走中に何回も諸葛亮の罠にかかり、最後に華栄道を逃げ去りました。絶体絶命の危機を目の前に、曹操は何回も大笑いを見せました。もし彼が自分の天命を信じず、生死も天運によって決まられていると信じていなかったら、こんなに自由に笑うことはできなかったでしょう。

一方、赤壁の戦いの際、曹操が華栄道に敗走すると読んでいた諸葛亮が、その華栄道に過去、曹操の厚遇を受けていた関羽を派遣した理由は、天の意思に従っていたからです。つまり曹操の命が亡くなる時がまだだという天運が分かっていたからです。結局、関羽は曹操を逃し、曹操ヘの恩返しをしたという義挙を果たしたのです。その訳を知った劉備は、敵である曹操を排除する貴重な機会を手放した諸葛亮を全く責めませんでした。

これらの物語には、古代の人々の天と地に対する畏敬の念が語られています。このような天命観がなければ、人は天象の変化を理解できず、人それぞれの運命を信じず、成功も失敗も重く受け止め、真の英雄や豪傑になるのは難しいのです。天命を理解することで、ネガティブになったりすることはなく、むしろ自由開豁の気持ちになります。

このような観点から見ると、どの王朝でも皇帝の開国を補佐した有名な宰相は、逸材的な存在です。皇帝の師の第一人と仰がれた殷王朝の名宰相、伊尹は、諸葛亮のような大きな知恵を持つ人で、天命を理解する才能があり、天意に従って行動し、世の情勢をよく把握しています。このような人は、名利に淡泊で、私利私欲のために皇位の座を狙わないために、皇帝の廃止を語る資格があるのです。

「皇帝ではない皇帝」という難解

董卓による皇帝の廃位の後、有力な大臣が皇帝を無視して実権を握るようになりました。暴君の漢霊帝が亡くなった後、漢王朝が終わりの運命を迎えるはずだったのですが、「皇帝ではない皇帝」という時期が何十年も持続していました。

つまり、実権を持っていない、名ばかりの皇帝は何十年も続いていました。しかも、漢の最後の皇帝である献帝は、才能と知性に恵まれ、無造作なことをせず、暴君でもなかったですが、そのような皇帝の時に漢王朝は終わってしまいました。これは非常に理解し難いことで、献帝に同情を示した歴史研究者は少なくないですが、天意による特殊な歴史の流れでしょう。

(つづく)

劉如
文化面担当の編集者。大学で中国語文学を専攻し、『四書五経』や『資治通鑑』等の歴史書を熟読する。現代社会において失われつつある古典文学の教養を復興させ、道徳に基づく教育の大切さを広く伝えることをライフワークとしている。