長崎原爆投下から74年 浦上天主堂の十字架 米国から返還
8月9日、長崎に原爆が投下されてから74年経つ。旧称浦上天主堂に飾られていた十字架がこのほど、米国の大学からカトリック浦上教会に返還された。
クリスチャンが多かった長崎で、浦上天主堂は1914年に完成した。レンガ造りの瓦葺きで357坪と、キリスト教の大型で象徴的な建造物だった。1945年の原爆投下で、爆心地から500メートル範囲内にあった天主堂は、ほぼ原形をとどめぬまでに破壊された。
しかし、十字架は進駐した米兵が崩壊した天主堂のがれきの中から発見した。ウィルミントン大学ジャーナル8月6日付によると、戦時中に長崎司教と親交のあった米海兵隊員の故ウォルター・フック氏が、司教から譲り受け米国に持ち帰った。80年代初頭に、ウィルミントン大学に寄贈され、後に同大学の平和資料センターで保管されていた。
十字架は木製で高さ約1メートル、幅約30センチ。塗装は部分的にはがれ、傷があるものの、大きな損傷はない。
7日、高見三明・長崎大司教らは、米オハイオ州南西部のウィルミントン大学平和資料センターのターニャ・マウス代表から十字架を受け取った。
マウス氏は、この十字架のためにはるばる長崎から米国にきた訪問者の心情を見てきたという。一部の人は感動し、どうして米国に渡ったのかと疑問視する来訪者もあったという。
マウス氏はこれを見て、「本当にここにあるべきものだろうか?と考えてきた。おそらく、歴史の探求の意味で、この十字架について知る長崎にあるべきではないか」と述べた。
昭和20年8月9日午前11時2分、当時世界で最も強力なプルトニウム原子爆弾が、三菱重工の大型工場のあった長崎市に投下された。人口の約3割にあたる7万4千人が死亡した。司祭やキリスト教信徒、数十人も天主堂内で絶命したという。
この十字架は、熱によりガラスの瞳が溶けた木製の聖母マリア像「被爆のマリア像」の頭部とともに、浦上天主堂に保管される。9日は多くの人々が鑑賞できるよう、ミサで披露される。
(佐渡道世)