飛べるのに、なぜそうしない?

ある時、私のテーブルの上を一匹の小さな虫がゆっくりと動きながら自分に近づいてくるのに気がついた。虫は私の指にぶつかって少し動きを止めたが、別に逃げようとはしなかった。たぶん、何も危険を感じなかったのだろう。暫くしてまたこちらの方向に動き始めた。私はその虫に向かって、フーッと息を吹きかけた。すると、虫は急に向こうへ飛んで行ってしまった。

 「なぜこの虫は飛べるのに、テーブルの上を這うように少しずつ進んでいたのだろうか?」と不思議に思った。

 私はふと、考えた。実は私たちも、飛ぶことができるのではないか。ただ、往々にして何らかの観念や周りの人の影響を受け、作られた思想の枠から抜け出せないでいるから、自由に飛べないのだ。

 私たちは日ごろ雑用に追われ、ストレスに押しつぶされそうになりながらも、重い足取りで一歩一歩前へ進まなければならない。身ともに疲れると、癇癪を起こし不満を漏らす。しかし、もし自分がそれらの「出来事」から抜け出し、遠く離れた別の場所から客観的に見ることができるならば、きっと全ての理(ことわり)がはっきりと分かるに違いない。とてつもなく大きな困難も、取るに足らない小さな出来事になるはずである。

 そんな時はきっと、心を高く飛ばしてみればよいのだ。高いところから下を見下ろすと、全てが一目瞭然となる。スカッとして心も広くなり、自分の空も空間も自然と広くなるのではないだろうか。

 東晋時代の有名な詩人・陶淵明(とう・えんめい)は、まさにそんな境地を詠んでいる。「結盧在人境、而無車馬喧、問君何能爾、心遠地自偏」(人里に庵を結んで住んでいるが、貴人の車馬の音に煩わされることはない。どうしてこんなに静かに暮らすことができるかというと、心が遠く世俗を離れていれば住む地も人里離れた地となる)。

 常に穏やかで心の広い人は、天と地が最も広い豪邸となりうる。私たちの心の奥底には深い宇宙への道がある。宇宙の深層に意識が向かっている時、実際に飛んでいなくても心はすでに宇宙の中を悠々と飛翔しているのだ。

(翻訳編集・豊山)