優れる宝 子にしかめやも
万葉の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)は、官人としては地方官どまりで特に出世したわけではない。ただ憶良という人物がもつ温かみに、後世の私たちは大きな魅力を感じているようだ。
下級職の記録係であり、すでに40歳過ぎの若くはない憶良は、大宝2年(702年)の第七次遣唐使の一員として唐土に渡った。唐のすぐれた学問や文化を吸収し、2年後に無事帰国しているのだが、当時の危険な航海を想像すれば、無事に帰国した憶良の運の強さに私たちはもっと驚いてよい。
しかし、唐帰りで箔をつけた青年官僚とは異なり、憶良はいたって淡白であった。おそらく、出世昇進という官僚世界のリアリズムの中に身を置くことは憶良の本意ではなく、その血肉に溶け込んだ儒教や仏教の倫理観からほとばしる歌のほうにこそ自身の本当の姿が投影できたからではないか。
だから憶良は、宮仕えの身でありながら、重税にあえぐ農民や夫を防人の兵役に出さねばならない妻の悲しみを自らの歌に込めた。そんな彼を、社会派歌人などという軽率な言葉で呼びたくはない。憶良に魅力を感じる者としては、体制批判ともとれるような歌を残して、彼自身にお咎めはなかったのかと心配しないわけにはいかないのだ。
しかしまた、そのような心配は、全く的外れな現代人の認識であるようにも思う。1300年前の日本人は、今よりはるかに大らかで、曲がっていなかったとも思えるからだ。
憶良には、多くの子供があったらしい。「瓜食めば子ども思ほゆ、栗食めばまして偲はゆ、何処より来りしものぞ」と、子供たちへの愛情をふんだんに歌に込めた憶良であるが、ここで注目されるのは、子供の来源に関して「何処より来りしものぞ(どこから来たものであろうか)」と歌中に述べていることである。
生物学的な結果として子供が生まれるなどとは、もちろん考えない。この憶良の歌意は、「この世ではない他の空間から来たのか」というような感覚に近いはずだ。おそらく、官僚の世界で日常目にする醜い大人とは正反対に、純真無垢で愛らしい子供たちは、例えば天上世界から降りてきた新しい生命というような輝きで、憶良の目に映っていたのではないか。
だからこそ憶良は、子供を無条件に絶賛して歌う。
「銀も金も玉も何せむに、優れる宝、子に及かめやも」
もはや解説は不要だろう。金銀財宝よりも、何よりも子供に優る宝はない、と1300年前の日本人は歌った。それをきちんと受け取るか否かは、現代の日本人の責任にかかっている。
(埼玉S)【ショート・エッセイ】より