【紀元曙光】2020年7月17日

17歳11か月で棋聖のタイトルを獲得。高校生棋士、藤井聡太七段の快挙であった。

▼棋聖に比べるのは誠におこがましいが、筆者の17歳の頃など、思い出すのも恥ずかしい。普通の高校生であったとは思うが、まだ人生の道も見えず、自分の未熟さだけが目の前に突きつけられる、悩み多き青春の中にいた。
▼プロ棋士の世界のことは、恐縮だが、筆者は十分な知識をもたない。ただ、テレビの画面に「タイトル獲得」のニュース速報が出たところから、よほどの快挙らしいと想像するばかりである。
▼将棋についての不勉強を白状した上で、愚問を一つ述べさせていただく。プロ棋士という人が、なぜその地位に相応する収入を得られ、「職業」として社会に存在し得るのだろうか。プロのスポーツならば、野球であれ大相撲であれ、手に汗握る熱戦で観客を沸かせ、テレビを見る多くの人を楽しませるというエンターテインメント性がある。ゆえに、入場料も取れるし、広告スポンサーもつくのだろう。
▼将棋や囲碁はどうか。筆者の狭い知見だが、対局する二人を、観客がじっと眺めて楽しむものではなさそうだ。藤井さんが、今回は何を出前で食べたかは本質的な問題ではない。素人がやれば娯楽である将棋が、最高のレベルで競い合う対局となると、それ自体が伝統文化であり、人々の尊敬を集める妙技となるのだろう。
▼秀麗な文化に対して、それにふさわしい名誉と報酬が与えられるから、そこにプロが成立する。一般の生産労働でなくとも、文化の価値が正当に評価されることは、先進国の必須条件の一つと言ってよい。