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【歌の手帳】唐土の人

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(古今集)

 阿倍仲麻呂(698~770)の歌。小倉百人一首でもよく知られている一首です。

 通説では、遣唐留学生として入唐した仲麻呂がいよいよ日本へ帰国するときに、送別の宴で詠んだ歌とされています。

 ただ「宴席に集う中国人に向けて、日本語の歌を披露した」というのは、ちょっと考えにくいですね。おそらくは賑やかな宴席を離れて一人になった仲麻呂が、ふと見上げた夜空の月に望郷の念を動かされ、普段は使わない母国語で自分のために詠んだ歌なのでしょう。

 この歌について『古今和歌集』では「明州といふ所の海辺にて、かの国の人、餞別(むまのはなむけ)しけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見てよめる、となむ伝ふる」と説明されています。

 「となむ伝ふる(と伝えられている)」なので、それが史実であるか実はよく分からないのですが、ここでは歌に込められた仲麻呂の心情に寄り添うことにします。

 入唐した阿倍仲麻呂は17歳でした。若くして優秀だったのは間違いないのですが、日本人である仲麻呂が唐王朝のなかで重用され高官にまで昇進したことは、異国の出身者でも有能であれば受け入れる許容度の高さを、唐という時代が有していたからに他なりません。 

 唐王室も、もとをたどれば北方の騎馬民族が出自です。しかし太宗・李世民が自ら範を示したように、中国の伝統文化を積極的に学び、それによって国を繫栄させることを国是とした唐は、まさに中国史上における黄金時代を現出しました。三省六部(さんしょうりくぶ)に代表される唐の行政システムも、法体系である唐律も、さらには仏法の戒律までも、日本が命懸けの遣唐使を送って学びたい貴重な文化でした。

 興味深いのは、仲麻呂自身は日本へ帰りたかったのですが、当時の皇帝である玄宗が気に入り、なかなか帰国を許さなかったことです。玄宗は、仲麻呂を自分の側において、日本の遣唐使節団を応対させる専門官にしたかったようです。ただ、それだけではなく、阿倍仲麻呂という日本人が、おそらく見た目も整った美男子であり、中国の文化人と社交できる豊かな教養と人間性をもっていたからに違いありません。その交友のなかに、李白や王維といった著名人もいたことは、よく知られています。

 しかし阿倍仲麻呂が乗った船は、沖で難破してしまいます。幸い死ななかったものの、ついに日本へは帰れず、はじめから定められていた運命のように唐土で73年の生涯を閉じます。

 春日野の月を望みし唐土(もろこし)の人の心は十七のまま

(敏)

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