寛容な宰相 韓琦
北宋の時代、廷臣の家に生まれた韓琦(かんき)は、三人の皇帝を補佐し、宰相まで上りつめた。寛大で高潔な人物として人々から尊敬され、「韓公」と呼ばれていた。
韓琦はかつて、「自分は皇帝に忠を尽くし、どんなことがあっても死を恐れません。幸い、自分はまだ死に目に遭うこともなく、全てをなし遂げています。ただ、これは決して自分の能力で全うしたのではなく、ひとえに神の支えがあったからです」と天を敬うことを忘れなかった。
韓琦が国庫管理の責任者を務めた時、朝廷内では変事が多く発生した。彼は疑われても国庫を守り、職責を全うした。周りからは、「君は正しいことをしているが、万が一誤りが生じたら、命を失う恐れがあるぞ」と忠告された。
これに対し、韓琦は言った。「家臣として君主に仕えるには、生死を気にしないものです。成否は神の意に従います。失敗を恐れるが故に責任を放棄してしまうというのですか?」周りは彼の返答にうな垂れ、敬服した。
ある夜、韓琦は軍隊を率い、定州(現河北省保定市)に駐屯していた。彼は手紙を書くため、一人の兵卒にロウソクを照らすよう命じた。すると、兵卒はうっかりして韓琦の揉み上げに火を移してしまった。韓琦はすぐに袖で揉み上げを抑えて火を消すと、何事もなかったかのように手紙を書き続けた。暫くして、その兵卒がいないことに気づいた韓琦は、「先ほどの兵卒を替えないでくれ。彼はロウソクの正しい持ち方が分かったからだ」と兵卒の過ちに対して穏便に済ませた。彼の部下たちは、韓琦の寛大なこころに感謝した。
韓琦が大名府(現河北省大名県)に駐在していた時の逸話もある。彼は漕運官員を招待した宴に、自分が大事にしていた玉杯をテーブルに出した。すると、ある者の不注意で玉杯がテーブルから落ち、全部割れてしまった。周りは驚き、落とした者も即座に地に伏して懲罰を待った。しかし、韓琦は表情を変えず微笑みながら来客に言った。「どんな物でも終わりはあります。彼は故意に杯を割ったのではないから、罪にはなりません」。来客全員が韓琦の思いやりと寛容な態度に感心したという。
また、ある時、韓琦は反乱軍を征討するために陜西地区に出かけた。彼に随行した顔師魯と李績は不仲な上、よく韓琦の前で互いの悪口を言った。韓琦は二人の話に共に耳を傾けたが、他人には一切言わなかった。そのため、二人は征討中いざこざもなく過ごすことができた。
韓琦は、「君子にも卑怯者にも、真心をもって彼らに接するべきである。卑怯者であれば、浅い付き合いに留めておけばいいのだ」と語った。常人は、卑怯者に騙されていることが分かれば、すぐにそのことを周りに知らせるが、韓琦は他言せず、悠々と見逃すと言っていた。
(翻訳編集・李青)