<心の琴線> 生と死について―最後だとわかっていたなら

未曾有の大災害を目のあたりにして、多くの被災された方々のことを思うとともに、生や死について深く考えさせられた。そしてすぐに10年前、NYで起こった911ワールド・トレードセンター崩壊の記憶が蘇った。

 しかし、今回は巨大災害であり、被害は広範囲で被災された方たちの数は桁外れである。あまりにも悲惨すぎるし、全ての事が、まるで悪夢のようで未だに信じられない。日本の方々が、今も続く余震や原発事故に不安を覚えながら毎日を過ごされておられると思うと、NYにいる私は、本当に申し訳なく思ってしまう。被災された方たちのお気持ちを考えると、適切な言葉が浮かばず、己の無力さを感ぜずにはおられない。

 人が生きているとは、そして、死んでしまうとはどういうことなのだろうか。

 恥ずかしながら、今までの自分の人生の中で、それについて深く突き詰めて考えた事がなかった。楽観的というより、本当は考えたくなかったというのが正直なところである。映画やテレビドラマ、あるいは文学作品の中で、悲しさの疑似体験は多くしていたが、実際のところ分からなかったのだ。

 ちょうど同じ頃、病気で亡くなった日本の母の事が、私にとって今でも重く心に圧し掛かる。毎週、国際電話で聞けた母の声をもう聞く事が出来ないと思うと、今でも無性に悲しく思うのだ。

 母が亡くなる少し前、看病のため一時帰国した私は、病室のベッドの母にこんな言葉をかけた。

 「ねえ、おかあさん。私がやっている気功の先生は、死んで肉体が滅びてもは滅びないっておっしゃっていたの。魂は宇宙から生まれて、宇宙へ帰っていくんだって。何年先か分からないけど、私も後で行くから、お母さん、宇宙で一緒に会おうね」

 母は「うん、待っているからね」と言ってくれた。

 私は母と約束した。人は死んでも魂は滅びない。だからこそ私は、この世にある限り出来るだけ業を作らず、徳を積む誠実な生き方をしよう。

 そしていつの日か私も、母が待っている宇宙に帰りたいものだ、と願わずにいられない。

 

(山崎)