ウェンシーが師父の家を出ると、その道すがらは恍惚として、師母にいとまを言ってこなかったことが思い出された。師母は実の母親のようによくしてくれたので、一言もなかったことが心苦しかったのである。戻ろうかと思ったが、師父を思うと、また叱られるのではないかと恐れ、戻る勇気が湧いてこなかった。
昼になると、彼はとある民家に立ち寄りツァンバを無心した。家の主人は、彼の身体が壮健であるのを見て、ツァンバを与えて彼に言った。
「お若いの、何が悲しくて人の家で物乞いをしているのかな?」
「私は仕事を探しているのです」とウェンシーは答えた。
「仕事を探している?字は読めますかな?お経の方はどうですかな?」と、主人が聞いた。
「お経だって読めますよ」。ウェンシーは以前ウシャンカン地方でラマについてお経を読んでいたのだった。
「いいですな。わたしはいまお経を読める人を探していたところです。お経を読むのを手伝ってくれるのなら、あなたを供養しましょう」
「いいでしょう」、ウェンシーはよろこんでこの仕事を引き受けた。もう人の家で物乞いをしなくてもよかったからである。
ウェンシーが人の家でお経を読んでいると、お経の中に泣き菩薩のくだりがあった。泣き菩薩は、修成前にウェンシーのように困窮したが、法を求める心は非常に堅く、正法のためには死をも恐れず、心臓を掘り出す必要があれば、それも拒まなかったという故事である。
ウェンシーはここまで読むと、心が震えた。「人が正法を求めるには、生命などかまっていられないのだ。私の苦労が何なのだ。泣き菩薩に比べれば物の数ではない」
「師父はまだ法を伝えないとはいっていない。師父が法を伝えないのなら、師母もまた他のラマを紹介する必要があったのではないか?よし、戻ろう」
彼はこのように考え、師父の元へ戻ることを決めた。
ウェンシーは戻ると、先に師母にあいさつした。師母は大変に喜んで言った。「怪力君、あなた戻ってきたのね。今度は問題なく、師父は法を伝えると思うわ。あなたが去った後ね、師父は大変に残念がって空行の護法に、『善根のある弟子を護り、戻してくさい』と祈って涙を流したのよ。怪力君、あなたがそんなにもいい弟子だから、師父の慈悲心を引き起こしたのよ」
ウェンシーはとっさに、これは師母の慰めではないかと思った。もし師父が本当に涙を流し、私が「善根のある弟子」であるならば、まだ私にも見込みがある。しかし、それが単なる話だけなら、わたしを戻すだけのものだ。もし灌頂と口訣を受けられなかったら、その善根は最低の善根だ。もしほかのところに行かなかったら、また苦痛が戻るだけのことだ。
ウェンシーは頭の中が混乱した。師母はすでに師父のところに行って報告していた。
「先生、怪力君が帰ってきましたよ。あの子は、わたしたちを見捨てないで、まあ戻ってきたのですよ。あいさつにこさせましょうか?」
「ふん!」 師父は答えた。「あいつはわたしたちを見捨てなかったのではない。自分を見捨てなかったのだ」。師母は、すぐに彼をあいさつにこさせた。
「怪力!」師父は彼に説いた。「もしおまえが本当に法を求めているのなら、法のためなら命を捨てる覚悟がなくてはならない。急いではならないし、四の五の考えてもいけない。よく私の話を聞き、わたしがやれといったことをやりなさい。すぐに三階建の工事に戻って、それが落成したら灌頂をしてあげよう」
師父はウェンシーをちらっと見て付け加えた。「もし意に沿えないようなら、よそにいけばいい。いつでもいいぞ」
ウェンシーは頭を下げ、何も言わずに、その場を辞した。
師母が今度は師父が法を伝えてくれると言ったが、結局はそれもなく、また工事に戻れというだけだった。工事そのものは、まるで終わりもなく果てもないようなもので、もし心臓を取り出して法を伝えてもらえるなら、そのほうがいっそ単純で明快であった。彼は極度に失望し、「ここでは工事以外に何もないな…」と思うと、すぐに師母を探しだしていとまにでる準備をし、今度は本当に去る決意であった。
彼は師母のところに行くと、「今度もまた師父は法を伝えてくれず、工事に戻れと言うばかりでした。しかし、工事がうまくいったとしても、いつも法を伝えてくれず、叱られるばかりです。師母、私は母に会いたいです。ここにいても法を得られないのであれば、郷里に戻りたいのです。ですので、特別にあなたにいとまを申し出ることにしました。師母には感謝しております。師母と師父が永遠に安寧でありますように」と言って、離れようとした。
「怪力君!」師母が彼を呼び止めた。「あなたはこれっぽっちも間違ってはいません。しかし先を急ぐことはありませんよ。私は以前にいい先生を紹介するといいませんでしたか。私はあなたをアバ・ラマのところに紹介しようと思っているの。彼はあなたの兄弟子にあたる人で先達よ、先生の口訣を受けた人だわ。だから数日、待っていて」
ウェンシーはこれを聞くと一縷の希望を見出し、暫時残って、行かないことにした。
(続く)
(翻訳編集・武蔵)
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