天文観測で部下の災難を予知した永楽帝
古代の中国人は天文現象の理論を信じています。皇帝に情報の参考を提供するため、朝廷では天文現象の変化を報告する「欽天監」 (きんてんかん)などの専門役人がいました。皇帝の中には、自ら天文理論を学ぶ者もあり、永楽帝(えいらくてい)もその一人でした。
朱能は中国の明代の名将であり、字が士弘です。彼は永楽帝に従い、「靖難の変」で北平の九門を攻略したり、命の危機が迫ったときに生死を問わず永楽帝を守ったりと、多くの戦功を成し遂げました。朱能は左軍都督府の左都督に任じられ、「成国公」の称号を授与され、及び「太子太傅(皇太子の師)」にも任命されました。
永楽4年(西暦1406年)、外国の軍隊が国境に侵入し、朱能は征夷大将軍に就任して安南を制圧しました。軍隊が南西に向かって広西に進軍したとき、永楽帝は廷臣たちに「朕夜察天象,西帅有忧,其朱能乎?然能足办斯事,朕第虑气候非所习耳。」と言いました。現代文に訳すと、「私は夜空を観察したが、西に向かっている軍隊の司令官は災難があるみたいだ。それが朱然だろうか。彼は敵を倒す才能が十分だが、南方の気候に慣れていないのが心配だ」という意味になります。
おおよそ十日後、朱能の訃報が急に来ました。永楽帝が観察した天文現象に応じて、朱能は軍を率いて広西南西部の竜州に到着した後、本当に病気で亡くなりました。永楽帝が天文現象から見た「西帅有忧」というのは、まさに朱能の命に関わる災難でした。そのため、永楽帝はショックと悲しみのあまり、5日間王朝の事務を休んで、朱能を昌平に埋葬しました。そして、彼に「東平王」という称号と、「武烈」という諡號を与えました。
実際、古代中国の「天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっている」という天人相関説の理論は非常に合理的であり、天体現象の変化は下界の大事件に対応しています。 貿易戦争や肺炎のパンデミックなど、現在起きている一連の大事件はすべて、「天は中国共産党を滅ぼす」という天の兆しの変化の下で起きたものです。中共の滅亡は天の意志です。地上の人々が身の安全を守るためには、天の意志に従って中国共産党から脱出し、中共のことを避けていくしかありません。
資料出典:《成国朱公东平武烈王神道碑铭》、《明史·朱能传》
(翻訳者 啓凡)